皆様ご機嫌よう。


寒くて引きこもりがちな白雪子です。

(^_^;)


なるべく用事を減らして、外に出ないように過ごしております。(苦笑)

毎年この時期、体調を崩すのですよね…


帯状疱疹とか、ウィルス系は一度発症するとキツくて辛いので、おこもりしながらやり過ごしてます。



今日は先日テレビで観た番組で、物凄くモヤっとした事についてです。


私個人の意見であり見解なので、こんな見方もある、とご理解いただければ幸いです。


そして久々の長文です…。

以下長いので、ご了承下さい。





その番組とはNHKの「話そう!学校のみらい」という特別番組でした。


全国に不登校の児童生徒が30万人いる現状について、様々な角度からのリポートと共に専門家が意見を交わす、という構成でした。


不登校になってしまう原因は様々で、心身の不調やいじめ問題など、深刻な理由があると思います。


なので、その個々人の事情について、私は語る言葉を持たないのですが、モヤっとしたのは学校教育に対する見解についてでした。


「好きなことをやりたい」という子供の目線。

「興味のあることなら学ぶ気になる」

「すべての子ども達が活き活きと学べるように」


そんな意見が、善であり正解のような締めくくりだったのですよね。


白雪子の正直な感想を、批判覚悟で言わせていただければ…


いや、何言ってるの??

( ゚д゚)…


でした…。


その、個人の個性を大切にした姿勢自体は、決して間違いでないと思います。

ですがそれは…


義務教育が終わってからの

話じゃないんですか?


番組の終盤で、コメンテーターの1人の華やかな女の子が言っていました。

「私はファッションが好きだから、そんな授業があったら楽しかったと思う」的な事を。


それは、まぁ…そうなのでしょうが。


でも、自分の趣味を学校教育の中に求めるのであれば、それは高校を選択する時点で、自分でそういった教育に力を入れている学校を選び、合格するように努力して入学する…という方向で語るべき話しではないのでしょうか?


基礎的な知識を学び切る前に、好きな事をしたいと主張することは、正しいのでしょうか。


教わる場所を選ぶ権利は個人にあるとは思いますが、それはやるべき事をやってから、が大前提ではないのでしょうか。



義務教育とは。


子供がこの国で、この社会で、自力で生き抜いていくために必要な最低限の知識と経験の礎を、国が公教育として行う義務のはずです。


私たち成人した国民は、税金を払う形で、また子供の保護者としての立場で、それを行う義務があります。


社会の中で生きていない国民は、ほとんどいないでしょう。

ですから、義務教育期間に授けられる知識と経験を持たずに、社会に出るということは、なんの武装もせずに、丸腰で敵陣の前に躍り出るようなものではないかと、私は感じます。


では、無策のまま成人して社会に出てしまう子供の、その責任は誰にあるのでしょう?


国ですか?

学校ですか?

保護者でしょうか?


最終的に責任を負うのは、

子供本人ですよね。


だって、他人も国も、

だれも個人の人生の責任を

とってはくれないのですから。


そうならないように。

子供達が自分の未来を、ある程度自分で選べるだけの選択肢を持てるように、

精一杯の知識と経験を授けようとする、この国の、

社会全体の「親心」が、公教育ではないのでしょうか。



そして、子供にも。

社会の恩恵を受け、また社会を支えて行く一員として、最低限の知識を教育として受ける義務と責任があります。


前頭葉が未成熟な10代前半までの子供達が、我慢が効きにくく、好きな事をやりたいのは当たり前です。


保護者に甘えて、それをねだるのは、子供の特権なのかもしれません。


でも、大人になった時に、好きな事だけをして生きていける人が、いったいどれほどいるでしょうか。


子供本人が好きな事ができないから、

やりたくない事を無理強いすると、学ぶ気持ちが無くなるから…

だから学校教育のあり方が問題だととらえるのは、どうにも履き違えている感じがしてなりません。


NHKに寄せられた子供達の声の中に、「テストの点数で比べられるのが嫌だ」というものがありました。


学校でテストがあるのは、何のためでしょうか。


子供達を格付けするためですか?

偏差値の高い高校に受かるための訓練ですか?


いや、違うでしょう…


1学期間で学んだ知識を、本人がどれほど吸収して理解しているのか、知識がきちんと定着して、本人の力になっているのかの確認作業ですよね?


そもそも…

勉強したくないならば、

高校は行かなくてもいいのです。


高卒認定を取って大学を受ける…などの話ではありません。それは勉強しないと不可能ですからね。


中学を卒業していれば、

未成年であっても社会人として

働けるのですから。


勉強したくないならば、勉強しなくても生きていけるように、本人が自分の未来に責任を持ち、働いて生きていけばよいのです。


ですが、世の中で中卒者の採用希望は少ないです。

なぜならば「学が無い」ということは「社会で必要な基本的な知識が足りない」という証明になってしまう一面があるからです。


高度な分業社会であるこの現代で、それは人材として使えないと判断されても無理からぬ事です。


企業経営はボランティアではありません。

どの会社もどの個人事業主も、事業の存続を賭けて、従業員の人生を背負って仕事をし、収益を上げ、社会の歯車を円滑にまわすべく切磋琢磨しているのですから。


どの仕事も、その現場に入ってから学ぶ事が山ほどあるのです。

基本的な義務教育の内容を、仕事場で教え直している余裕は、社会には無いのです。


半世紀前でしたら、徒弟制度や中卒集団就職の青田買いといった需要もありましたが、現在でそうしたものはとても少ないですよね。


学びを避けた将来に、待ち受ける苦労を想像できるから、大人達は、学校の先生方は「勉強して、せめて高校は卒業した方がいい」という想いで、子供達を教育しているはずです。


テストで比べられているのは、他の同級生の成績ではなく、本人の学習前後の習熟度合いです。


「君は授業を理解して、ちゃんと知識を自分のものにできたのかな?」という確認がテストなのです。



…こうしたことは、私は当たり前の常識だと思っていましたが、テレビの番組内でこのような見解でもって発言する人はいませんでした。


唯一文科省の方が…

「私は嫌われ役として今日この場にいますが」として「未来を選ぶためにも、基本的な知識は大前提として必要だ」というような発言をされていたぐらいでしょうか。


子供達に、大人達は危機感をもって発言しなくてはいけないのではないでしょうか。


人生は、生き抜くための闘いだと。


大人になったら、全ての責任は

自分自身にあるのだと。


だから、成人するまでの期間が

とても大切なのだと。


自分の未来は、自分で切り拓いて

いかなくてはならないのだと。


その為にこそ、教育は学びはあるのだと。



そして…

保護者がいつまでも自分を守ってくれる保証は、どこにも無いのだと。


私は癌になった時、子供達に必要な事を伝えきれずに死ぬかもしれない事が、とても怖かったです。


親としての責任を果たせない事が。

成人して社会に出る前に、生きて行く力をつけさせる前に、逝くかもしれない事が、途轍もない恐怖でした。


自分の人生が終わる事よりも、子供達の未来に関われなくなる事が、なによりも苦しいことでした。


私は、幸いにも今も生きて、親として子供達と過ごせる時間を持てました。


でも、そうできない人も沢山いるのだと、切ない想いで理解しています。

そしてまた、一度は猶予をもらえた私も決して例外ではないことも。


いつ、命の終わりまでのカウントダウンが始まるかは、誰にもわからないのですから。




勉強は苦手だという子供も、ゲームはするでしょうし、SNSやYouTubeは観るのでしょう。


そこに映し出されるのは、目に優しく楽しく、耳障りの良い世界であり、非日常の刺激的な世界でしょう。


その画面の中の世界は

現実ではありません。


私達は、仮想世界と現実世界の違いを、今一度ハッキリと子供達に伝える必要があるのではないでしょうか。


とても単純な話です。


食い扶持を稼げなければ

人は飢えて死ぬのです。


もちろんこの国には生活保護という、セーフティネットはありますが。

全国民を賄えるわけではありません。

働かずに裕福な暮らしができるほど、国がお金をくれるわけではないのですから。


飢えずに、自分の望みを実現していけるように、

そしてできれば、その方法を自分で選べるように、

その為にこそ、子供達は学ぶのです。


自由には責任と

結果が伴います。


義務を放棄すれば

権利も失います。


無知は、時に罪になり

また、死に直結します。


理科で、この世界の自然の法則を、この世の物理法則を学ばずして、自分の身を守れるでしょうか。


社会科で、社会の仕組みを、行政を、司法を学ばずして、社会人としてやっていけるでしょうか。


歴史で、人類の、各国の成り立ちを、誤ちを学ばずして、世界の潮流の中で生き残れるでしょうか。


保健体育で、身体の基本を学ばずして、自分の健康を守れるでしょうか。


家庭科で、生活の基本を学ばずして、自分の面倒を見られるでしょうか。


様々な人がこの世の中にはいるのだという事を、集団生活で学ばずして、社会の多様性に適応できるでしょうか。


国語で、自分の想いを言葉にする方法を学ばずして、人と繋がっていけるでしょうか。


数学も英語も、現代社会では必要だからこそ、教科として在るのです。




今現在日本を含めたこの地球では、紛争や戦争がおこり、自然災害は多発して、毎日毎日、世界で様々な災厄で人が死んでいきます。


災厄に例外などありません。

いつでも我が身に起こり得るのです。


学びは、未来を切り拓く礎であり、

知識は、人生を守る盾となり得ます。


学び方を選びたいのなら、その責任は個人に帰属します。


NHKの番組では、「日本の公教育が限界を迎えている」と語られていました。


でも、実際の小中学校では、たくさんの教科を先生方が懸命に教えています。


学校は万能では無いのです。

教師は何でも屋ではありません。


学校と家庭は、協力して子供達を教育していくべきですが、家庭の問題の解決を、学校に過剰に期待するのは無理があります。


番組では学ぶ責任が誰に在るのかを語られてはいないようでした。


学ぶ責任は子供本人にあります。


自分の学び方の責任は、

子供が生涯負うものです。


人生は誰のせいにもできないのだという事を、大人達ははっきりと子供達に伝えていかなくてはいけないのではないでしょうか。



私の病気の皺寄せを、それなりに受けさせてしまったであろう中学一年生の長男に、きいてみました。


「あなたと同じ中学生でね、今の学校の勉強ではなくて、好きな事を学びたい、テストや成績で比べられるのが嫌だ、という意見もそれなりにあるみたいなんだよね。どう思う?」と。


息子の答えはこうでした。


「気持ちはわからないでもないけど…。

そんなに甘いものじゃないよね。好きな事ばっかりできるわけないんだからさぁ…」


12歳、それはもう大人の入口を目指して、日々を重ねている年頃なのだな、と感じられる言葉でした…。



不登校という深刻な問題に対して、これが正解という解決策は、ないのかもしれません。

それでも、この混迷の社会の未来を生きて行く子供達に、この国の義務教育は毅然としてメッセージを発して欲しいな、と思いました。


人生の責任は自分にある、と。

だからこそ、自分自身のために

自分の意志で学ぶのだ、と。


公教育は、学ぶ意志がなければ、真価を発揮できません。


そして、その意志の始めの一歩を促す役目は、学校でも教師でもなく、保護者にあり、家庭にあります。



大人になる前に必要な、様々な学びを、義務教育のカリキュラムはきちんと準備しています。

教師はそれを教えるためのプロであって、個々人の学びの好みに合わせるための人材ではないのです。


すでに公立校の教職は、ブラック企業と同列に語られるほど、その過剰な業務に人材確保が危機的な状況だとは周知の事実です。


既存の公教育を、子供たちが好きな事を自由に学べるようにと変えるならば、そもそもの教職免許の内容から変えなくてはならないでしょう。

不登校児童生徒専門の教育機関を立ち上げる必要性も、今後でてくるかもしれません。


それを、私達はどこまで国の責任としますか?


世界でも有数の手厚さを誇る今の日本の義務教育に、どこまでの責務を上乗せするのでしょうか。


学ぶ責任は誰に在るのか。

未来の責任は誰の手にあるのか。


私達が子供達に伝えて行かねばならない事は、何でしょうか。


少なくとも私は自分の子供達には、生きている間にこれだけは伝えていきたいです。


自分の足で、心で

しっかりと立って生きろ、と。