(※ 5/12 23時ごろ改題しました。最後もくどかった?のでちょっと変えました)

 

昨日だったかな、こちらでは八重桜?が満開です。

 

 

さて、今日のお題は『宗教卒業』

卒業にあたって(あるいはあの組織にとどまり続けることに決めたとしても)、

この言葉は(特にJW3世、4世に)励ましになるだろうか?

 

では、本で読んだユダヤ教のラビ、メイルのからのお話を紹介するよ。

 

・・・・・・

 

昨年末から今年の正月にかけて、浜 日出夫の『戦後日本社会論』を読みました。

(2023年11月発行)

 

いや、もちろん自分は別に家族社会学者になりたいとか、そう言うわけで読んでいるんじゃない。また、人間関係・コミュニティーがまだまだ濃密だったあの頃の「昭和」ノスタルジーに浸りたくて読み始めたつもりもない。

 

まあ、本の初めの部分に「Always 三丁目の夕日」を見て読んだ方が理解が深まっていい、みたいなことが書いてあったから、「お正月映画だ!」と妙に昭和な気分になって、それを見てみて、ジ~ンと来たりはしてたけど(続編も見た)。

 

しかし、ボクがこの本を読み始めたのは、日本における某カルト宗教の運動史を理解するためだった。

 

は?

 

で、ここで”某カルトを理解するのに戦後日本社会の変遷を理解する必要があるのか?”的な話を書きはじめると、絶対、回り道し始めて、長くなって、そのうちに、あ~、めんどくせー!となって書き終わらないから、今はやめておこう。

 

前振りが長くなった。

 

でも、この本を読んで、折々にふと思い出す言葉がある。

今日はそれを紹介したい。

 

某カルト宗教を ”卒業” したいと思っている人には、

あるいは ”もうすでに卒業してます” と言う人にとっても、

励ましになるかもしれない。

 

・・・・・・

 

その言葉は、著者の浜日出夫氏が社会に巣立っていく卒業生たちに送ってきたもので、二世紀のユダヤ教のラビ、メイルが弟子に語った言葉をドイツの社会学者ジンメルが引用したものだそうだ。(100年ほど前の話らしい)

 

さあ、ラビのメイルさんからのお話です。

あなたは、どう感じるでしょうか?

では、どうぞ。。。

 


主があの世で私に、メイル、お前はなぜモーゼにならなかったのだ、と問われたとするならば、 私はこうお答えするだろう。

 

――主よ、私がメイルにほかならないからです。

 

そしてもし主がさらに、メイル、お前はなぜベン・アキバ(※)にならなかったのだ、と問われたとするならば、おなじように私はお答えするだろう。

 

――主よ、私がまさにメイルだからです。

 

だがしかし、もし主がこうお尋ねに なったとする――メイル、お前はなぜメイルにならなかったのだ?

 

さて、私はなんとお答えしたらいいだろう。

(ジンメル『ジンメル宗教論集』p380)

 

(※)ベン・アキバ:紀元1世紀から2世紀ごろに活動したもっとも高名なユダヤ教の律法学者のひとり。

 

 

なんと味のある言葉ではありませんか。。。

 

これって、フランクルの『夜と霧』に出てくる、あの、

「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」

的な言葉とも、相通じるものがあるではありませんかね?

 

cf. 100分de名著ゲストコラム 諸富祥彦 「生きる意味」を求めて 

 

(でもさ、あ、そーいやーさ、フランクルもユダヤ人だったな。)

 

話を戻そう。

 

・・・・・・

 

著者の浜氏は、上のラビのお話に続けて、学校を卒業して社会に出ていく若者に向けて励ましの言葉を書いています。

 

そこを続けて紹介しますが、でもこれ、JWをまさに卒業しようとしている、特にまだまだ若い2世、3世、4世にとっても、ちょっと単語を読み替えていただければ、ひょっとすると、よいはなむけの言葉になるかもしれない、と思うんだな。

 

うん。

これから社会に出ていこうとする某カルト宗教の卒業生、また卒業希望者は、

例えば、こんなふうに読み替えて読んでみて。

 

社会 → 組織

個人 → 信者

企業 → 宗教組織

仕事 → 宣教奉仕

学校 → 集会(とか)

 

(↓ 読み替えるところを黒字にした。まあ、そのままでもいいんだけど。)

 

 

メイルが弟子に言っているのは、人間は「なるもの」「成長するもの」であること、そしてその成長はモーゼやペン・アキバのような外的なものさしで測られるのではなく、自分自身をものさしとして自分がどれだけ自分になったかで測られるということです。

 

自分はすでに自分であるはずなのに自分になるとはどういうことでしょう。ジンメルがこの言葉を引用しているのは、ジンメルが(約100年前の)近代社会にいだいていた危機感と関係しています。ジンメルはおそらくワーク・ライフ・バランスという問題に最初に気づいた社会学者です。

 

社会は様々な個人から作られる統一体です。他方、個人もまたさまざまな夢や理想や欲望からなる統一体です。つまり、社会はそれ自体さまざまな要素の統一体である個人から作られる一段高次の統一体であるということになります。そして、社会がそれ自体でまったきものになろうとするとき、その要求は自らもまったさものになろうとする個人の要求とぶつかることになります。ワーク・ライフ・バランスという問題の原型がここにあります。 

 

企業は自ら完成されたものになろうとして、それを構成する個人に単一の役割を割り当て、個人にその役割に全人格的に同一化することを求めます。しかし、それは企業の側の都合であって、個人の側には個人の都合があります。たしかに仕事も大事だけれども、パートナーとの生活も大切だし、子どもと過ごす時間はかけがえがないし、友人との息抜きの時間も必要だし、趣味の時間もほしい、というのがふつうでしょう。ジンメルは「人はけっして完全に結婚しているのではなく、たかだたんに人格の一部 「……」 で結婚しているにすぎない」(ジンメル『社会学全集」168頁)と言ったことがあります。

 

同じように人はたかだか人格の一部で仕事をしているにすぎませんし、たかだか人格の一部で学校に行っているにすぎません。また、たかだか人格の一部で個々の友人とつきあっているにすぎませんし、たかだか人格の一部で趣味に打ち込んでいるにすぎません。これらのさまざまな要素が合わさって一個の人格が作られます。もちろん仕事一筋の人や、「家族一筋の人や趣味筋の人がいたってかまいません。それぞれの要素の間での力の配分は人によってさまざまです。この配分次第でどの人も他の人と異なる個性的な自分になっていきます。

 

明日香は明日香以外の者にはなれませんし、翔も翔以外の人間になる必要はありません。それぞれの要素をどれだけ発展させたか、自分の可能性をどれだけ生きつくしたか、どれだけまったきものになったかという内在的な基準にしたがって、どれだけ自分が自分自身になったかが割られます。

 

「お前はなぜ明日香にならなかったのだ?」「お前はなぜ翔にならなかったのだ?」という問いは、それはそれできびしい問いだと思います。

 

人生はこれからです。時間をかけてゆっくりと、一歩ずつ、明日香が明日香白身となり、翔が翔自身となる道を歩んでほしいと思います。勇気を出して前に進んでください。

 

 

・・・いかがだったかしら?

 

励みになる話だったかしら?

 

話はそれるけど、振り返るとあの某カルトってね、ワーク・ライフ・バランスとかは、まったくなかったよね。まして崇拝を「人格の一部」でやるなんてことも、表向きは全く認めてなかったね。こういう人間として当然のことを認めないのは、そう、「ブラック企業」と「カルト宗教」ぐらいだろうかね。

 

ま、そういった宗教文化だからこそ、また『宗教的虐待』『信仰を背景をした児童虐待』につながっていたように思うけど。

 

でも話がまたそれるから、今はやめておこう。

 

・・・・・・

 

まとめ、になるかな。

はじめの話を再度引用すれば、こんな話だった。

 

 

だがしかし、もし主がこうお尋ねに なったとする

 

――メイル、お前はなぜメイルにならなかったのだ?

 

さて、私はなんとお答えしたらいいだろう。

 

 

 

うん、どう答えましょう。。。

 

 

オレはオレに、ちゃんとなれているのか?

 

 

まぁ、あれこれ難しい話は置いておいて、

振り返ってみて、一つ確実に言えることがあるとすればね、

それは、次のことかな。

 

 

カルト宗教、卒業できて、本当によかった。

自分はより一層 ”自分” に成れたような気がする

もう、あそこに戻りたいとは絶対に思わない。自分宗教1世だし。

 

 

もちろん、あそこは妙に”卒業”しにくい宗教なので、

認知的・心理的・物理的な離脱レベルは人それぞれで異ならざるを得ない。

”宗教卒業”の内容やレベルは、人それぞれで決めていかないといけないのだ。

 

しかも困ったことに、”卒業”した後にも様々な障害、

心理的、社会的、経済的、その他の障害、

すなわち負の遺産を多かれ少なかれ抱えがち、と言う踏んだり蹴ったりな宗教。

 

 

でも、そんな大変さがあるとはいえ、

多少なりともでも、カルト宗教から ”卒業” できたおかげで、

やっぱり一層 ”自分” を取り戻せたように感じる

 

 

もし読者の中で、まだ「言われるがままの人生」を送っている方がいるなら、

できるとこから、ちょっとずつだけ、無理のない範囲から、

あの宗教からの ”卒業” を進めてみては、いかがだろうか。

 

 

(記事の終わり)