狭義:1870年代の明治政府による琉球の併合を意味する。
概ね1872年の「琉球藩王冊封(琉球藩設置)」から1879年の「廃琉置県処置】までを琉球処分と設定する見方が多い。

 

1871年
■日本
廃藩置県
薩摩藩→鹿児島県
明治政府内:琉球処分論(併合論)、両属公認論など有→尚泰の冊封論が採用

■琉球
薩摩藩が琉球に貸していた藩債の免除を通達し鹿児島県に倣ったに琉球の内政改革を要求。警戒し要求をのらりくらりかわす。 1871年:台風の影響で台湾南部へ漂着した宮古の人々が山地原住民に殺害される事件

■課題・状況
【政府の重要外交案件】近世の薩摩・琉球関係をいかに明治政府(天皇)と琉球との関係に再編するか?薩摩と清国の双方に従属していた琉球の所属をどのように位置づけるのか?


1872年
■日本
「維新慶賀使」派遣を要求
尚泰を「琉球藩王」として冊封する書類を渡す。

■琉球
要求に応え、伊江王子を正使とする使節団を東京へ派遣  琉球は外務省管轄

■課題・状況
東南アジアの伝統的な国際関係である冊封を模し関係性を明確化


72~74年
■日本
外交文書の接収(欧米列強との関係に大きく関与)
重要な外交案件(琉米・琉仏・琉蘭修好条約の三条約)
米・仏に琉球の「併合」を通達

■琉球
租税の綿製や蒸気船の下賜など
明治政府が米に琉球の併合を承認してもらったことは、両国からはこの段階では伝わっておらず

■課題・状況
恩恵を与えてじわじわ日本へなびかせる作戦
仏・蘭は未批淮だったので相手から重要視されず
米は琉球との条約を唯一「批淮」したので、明治政府に条約の内容を引き継ぐ意識があるのかを確認した上で、琉球の併合を承認(黙認)


1874年
■日本
1874この報復を台湾出兵を強行→日清間の談判となり清が賠償金50万両を支払うことで妥結

■琉球
内務卿大久保利通より、処分官として松田道之が派遣され、対清関係の断絶、明治年号の使用、裁判権の内務省移管を要求されるが、対清関係の継続を表明。その裏では清国・欧米諸国に対する救国請願運動を展開。明治政府の要求の不法性を訴える。


■課題・状況
同問題が外交問題となることを事前に防ぐために管轄を外務省から内務省へ変更
殺害された遭難者を「日本国族民」とする文言を日清間の条約中に入れる。これを根拠に琉球が日本へ所属するとし、琉球問題(処分)へ舵を切る
→米・仏は琉球の主張が正当であることを認めつつも、自らの利益を優先する立場から対日関係の維持・強化を最重視し、最終的に琉球の併合を黙認(日本の主張を支持)



1879年3月
■日本
軍隊300名余、警官160名余を率いた松田道之は首里城の明け渡しと尚泰の上京を布告

■琉球
3月29日に尚泰は首里城を退去。
4月4日に琉球藩の廃止と沖縄県の設立が通達
5月27日尚泰が東京へ連行され、侯爵に

■課題・状況
450年続いた琉球王国は解体。王国が撤去した首里城は、日本陸軍の熊本鎮台分遣隊が接収。軍営として使用。