第64回沖縄ももじゃら大学

1.うちなーぐち
2.六諭衍義
3.研究課題:久米村について


本日の薄田さんの作品



1.うちなーぐち ~花の風車(はなぬかじまやー)~
本島のわらべ歌 作詞/滝原安盛





歌詞

 花ぬ風車や エイスリ  <ハナヌーカジマヤー>
 風ちーりてぃみぐーる  <カジチーリティミグール> 
 チィトゥン テントゥン
 マンチンタン
 うねたり主ぬ前  <ウネタリスヌメー>
 御目かきれー  <ウミカキレー>

 花の風車は エイスリ
 風につれて回るよ
 チィトゥン テントゥン
 マンチンタン
 どうぞ尊い方よ ご覧下さい 




2.六諭衍義~他所の上の疵も 他所の疵と思な 我身の良し悪しや 定めぐりしゃ~




薄田さん
自分では真面目と思っていても他人が感じている自分が正しいと思う。
主観では見えない他人の評価が正しいのではないかと。

宮里さん
仕事でアルバイトが増え、いろいろな苦情など出てくる。
特に皆、他人の事はよく見えているが、自分が良く見えていない。
自身も編集をする際に、貧乏ゆすりをしていた。
それは指摘されるまで気づかなかった。
また会社でいつも他人の悪い所ばかりを指摘する人がいて皆うんざりしていた。
そこでその人にマニュアルを作ってもらう事にしたら、かなりいいマニュアルを作ってもらえた。

大城さん
終電などで臭い人がいると女性は逃げていく。
けど男性は気づいていない。
人によって見方が違うので、主観になってもいけない。
世の中規制が厳しくなってきているので、それにとらわれないようにするには、それらを踏まえた上でガイドラインを作って目的を達成させる仕組みづくりしないといけないと感じた。
教訓の話はマイナスを律する。という点が多いが、いい所を伸ばすという点やっていた方がいいのではないかと思う。

高良さん
第三者を意識した方がいいと思う。
学生時代、周りの目があったから規律が守られた。
けど、一人暮らしになると規律が守られなくなり、堕落するようになった。
だから、周りに見られるような環境は大切だと思った。

仲村さん
学生時代は人の欠点を見つけて祭り上げるような感じだったが、社会人になって「陽転思考」になった。
動いていて「課題」が見えやすい。
けど、課題だけでなく「いい所」も見るように入り交えて話すようにしている。
また課題を笑いにしながら、気づかせてその方向性に動かそうという考えになった。
会社で愚痴をいう人がいる。
それは課題解決の糸口だから、そういう視点でそれをどう活かしていくかを考えてもらうようにする。




3.研究課題:久米村について
長崎さん
風水と沖縄
風水とは
古代中国の思想で地形や方位から大地をめぐる気の流れを読み、その気が集まってくる場所に大切な王都や墓・住まいなどを作ることによって、健やかで豊かな生活を得ようとする考え方をいいます。専門用語で表現すると、その気の流れは龍脈(りゅうみゃく)、気が集まる場所を龍穴(りゅうけつ)といいます。

ちょっとメモ~鬼門について~
鬼門とは北東、裏鬼門とは南西の方角のこと。家相ではその方位に玄関や窓、トイレなどの水まわりを作ると、家の中に悪いことが起きるとされています。
なぜ北東と南西の方角を、鬼門と裏鬼門というのでしょう。その源となったのが、古代中国の情勢と地形です。当時の中国の都の北東と南西には強大な敵がいて、また南西からは強風が吹いてくるという状況でした。
つまり鬼門とは「外敵」と「強風」を意味し、北東と南西の方角に開口部と水まわりを作らないようにしたのは、住む人の安全と健康を考えた、古代中国の生活の知恵でした。



沖縄の風水
諸説あります。14世紀後半察度王の時代に福建省から那覇にやってきて久米村(現在の那覇市・久米)をつくった姓とその子孫により伝えられたとか、冊封使をはじめとする中国人によってもたらされたという説等々。どうやら徐々に浸透していった様子



石敢當(いしがんとう)

沖縄の民家の塀に見られます。そこがT字路の突き当たりになっています。
風水の考えによると、悪い気は直進する性質があるので、家の中に入ってこないよう食い止めるために、突き当たりに石敢當を設置します。悪い気は石敢當に当たると粉砕されるので、石敢當は魔よけなのです。


シーサー

シーサーは瓦職人が瓦を葺き、余った漆喰で「除災招福」を願って「おまけ」として創った事から始まりです。
中国からわたってきた魔よけの獅子(ライオン)で、当初は、城門・寺社・王陵・集落の入り口などに置かれていました。19世紀末、民家にも赤瓦の使用が許されると、屋根に獅子を据えて魔よけとする風習が一般に広まっていきました。

シーサーの由来で有名な話のひとつに沖縄本島南部・ 東風平町 (コチンダチョウ)、富盛(トモリ)の「シーサー」の話があります。
それによると、富盛集落では、たびたび起こる火事に悩まされていました。

そこで、久米村の風水師「蔡応瑞」の風水によって石造りのシーサーを創り、火難の元凶である八重瀬岳に向け安置したところ、火難から逃れることが出来たというのです。

それ以来、シーサーは魔除けとしての力を持つことが他の集落にも伝播し、さらに島々へと広まっていったそうです。


蔡応瑞 (さいおうずい)
 1651~1707(尚質4.2.2~尚貞39.2.7) 詩作にすぐれ、『皇清詩選』『中山詩文集』に収録されている。久米村出身。1687年には存留通事として渡唐し福建で風水を学んだ。『位階相当附』『琉球国中山王府官制』等の編纂にも携わる。



沖縄の風水の広がり
やはり蔡温


1668年においては、琉球王府が久米村の子孫を中国に派遣して風水を勉強させ、国づくりに役立てていました。久米村は沖縄本島で風水に基づいて街づくりされた代表格で、14世紀頃には日常的に取り入れていました。本島以外に広がっていったのは、琉球王府が国づくりに風水を用い始めた17世紀後半と考えられています。久米島や八重山などに風水師が派遣され、墓地などの風水を見たとされました。
そして、歴史上の人物、久米村出身の蔡温は、学んだ風水を国政に生かしました。彼が調べた首里城はこの上なく風水に優れており、遷都しなかったのは蔡温の調査結果によるものです。そのうち、農林事業も風水を取り入れ、自然環境も保護するようになったと言われています。


どこで学んだの?
1708年中国への進貢留学官となり、王命により地理・風水を学んで帰国した後からである。蔡温は福建派の劉霽という人物に師事し「秘書」および「大羅経」を持ち帰っている。

「大羅経」とは
風水師の道具の一つです。
別名を羅盤(ラバン)と呼んでいます。
非常に複雑な内容で、南北を示す磁石を中心に八卦、十干、十二支、二十八宿が配されています。
主に、方位による風水の吉凶判断に用いるものです。


蔡温の風水実績
沖縄県名護市 1682年(天和2年)~1761年(宝暦11年)


羽地大川 ・羽地地域は、琉球王朝時代から沖縄有数の農村地域でした。その水田の水源となる羽地大川は、長さ約6キロメートル、その羽地大川は、大雨や台風によってたびたび氾濫を起こしてました。農民たちは、羽地大川の改修工事に取り組んだが、川の暴れを沈めることはできませんでした。このため、当時、琉球王朝の三司官であった蔡温が、羽地の水田と農村を救うために羽地大川の大改修工事に着手しました。 蔡温は、政治・経済・土木技術に優れた指導者として琉球王朝に使えた役人で、特に中国で学んだ風水地理により、数多くの土木工事を手がけた技術者でもありました。 1735年、羽地大川の工事に取りかかった蔡温は、風水技術を駆使して川の流れ方を調査し、川を無理のない流れに改修する大工事を周辺の村々から約10万人を動員して、わずか3ヶ月で完成させました。 その結果、農民たちを苦しめていた羽地大川の氾濫は治まり、安定して羽地大川から水田に水を引けるようになった羽地集落は、米どころとして栄えました。農民は、蔡温の功績を称え、「改決羽地川碑記」を建て、現在、その碑は史跡として文化財に指定されています。


家の作りについて
大まかでのポイントは、北東は山(だるま山)、南は海、東西はフクギ林で守られている。
というのがいいと言われている。

中国・日本と沖縄の風水の違い
中国、日本、沖縄は、それぞれ風土が微妙に異なるので、その土地ごとに風水の常識は変わってくる。
台所は、基本的に一年中蒸し暑くなる場所なので、家の涼しいところに配置することが基本的な原則になってくる。そのため、中国や日本の風水では台所は家の東側に配置するのが良いとされている。
しかし沖縄においては真逆で、昔から台所は西側(北西)にもってくる決まりになっている。これは「西日の影響で物が腐りやすい」西側の台所を嫌う、中国や日本の風水とは 矛盾している。



高良さん
近代以降の久米系末裔の推移その2
李鳳娟『現代沖縄における「久米系末裔」の人々のアイデンティティに関する一考察』
内間貴士『現代沖縄の孔子廟をめぐる多角的な視線』を参考に

久米村の歴史
14世紀後半~15世紀半ば(大航海時代)
久米人が琉球の貿易業を支え発展。

15世紀後半
貿易の衰退により、久米村も同時に衰退。

1609年薩摩侵攻
検地が行なわれ、唐営籍が設けられると事情は一変する。
三十六姓の欠を補うという形で那覇・首里士族階級で中国語に通じている者を唐営籍に加え、唐営強化政策がとられた。
地扶持が与えられるなどの優遇策も実施。
⇒久米村の人口急増。
⇒職貢が義務付けられ、村ぐるみの協力体制が整えられる。

久米村人は服装や風俗習慣などを明の習俗に従っていた。
清朝が興るとその風に従うのを嫌い、1650年には琉球の風俗に改めた。
久米村人の信仰の対象は儒教と道教であり精神的な支えとなっている。
 儒教:孔子廟
 道教:天尊廟、上下天妃宮、竜王殿、関帝廟


久米村の団体
各久米系統の門中によって結成されている門中団体
久米国鼎会、梁氏呉江会、阮氏我華会、王氏槐王会など

門中というカテゴリとは系統を別として、歴史的に生活を共にした久米村人による団体
久米同進会

久米村人の精神的な支柱である儒教及び道教の霊廟を管理・運営する団体
久米崇聖会


門中団体
17世紀後半ごろから、王府の命により琉球の士族階級は家譜を編纂するようになった。

久米人は、家譜に中国的な姓を定め、これを氏と称するようになり、これにより各門中が構成された。

戦後、模合などで金銭的に相互扶助を行っていたが、財産等を一門で共有して団体を立ち上げるようになった。
⇒毛氏の久米国鼎会は、那覇市内に数千坪の土地の賃貸、契約駐車場の経営等の事業を行っており、門中団体としては最大規摸で、社団法人として登記されている。

規模は団体によって異なるも、相互扶助の理念は共通。
勉強会や中国との交流といった活動も行っている。


久米村同進会
零落した久米村人が村内で生活補助を受けるための施設「救済屋敷」の出身者の子孫から構成される団体。
門中団体のように法人事業は展開していない。
現在では救済屋敷出身者たちの子孫だけではなく、地城の自治会との寄り合い所としての機能を果たしている。

久米村孔子廟の由来
沖縄大百科事典より
「久米村の蔡建が1610年(万暦38)に進貢使として派遣されたとき山東省曲阜の聖廟を参拝し、そのおり孔子ならびに四配(顔子・曾子・子思・孟子)の絵像を購い帰り、郷村の士大夫の家を輪番で奉安し、祭典を行ったのがはじまり」

久米崇聖会
孔子廟の復興、修復のため久米村人の有志によって孔子廟内敷地にある儒教、道教施設の維持管理、および儒教の普及を目的として結成された。



宮里さん
梁氏呉江会の系譜図について

国に歴史があるように家系にも歴史がなくてはならい。
そのような主軸で作れた系譜図について発表して頂きました。







次回第65回沖縄ももじゃら大学
■日時:7月9日(土)
■時間:10時~
■場所:東京都杉並区梅里1-7-7 SKTビル2F
     最寄:丸の内線【 新高円寺 】(フジモト株式会社 会議室)

1.六諭衍義
2.うちなーぐち
3.研究課題:久米村についてまとめ