第63回沖縄ももじゃら大学

1.うちなーぐち
2.六諭衍義
3.研究課題:久米村について


1.うちなーぐち~でーじぬぐんかん~




じゃんけんで用いられてた唄です。

當間さんより沖縄のぐー、ちょき、ぱーについて説明を頂きました。

グー


チョキ


パー



じゃんけんの様子



藤木さん
べーるというのは嫌という意味である。
実は照屋林賢さんは別の歌があった。
イギリスの学者の方が言うには、沖縄程、唄・三線が残っているのは数少ない所だと言われている。



2.六諭衍義~教訓子孫~



高良さん
教育という視点では本日の久米村とリンクしてくるが、クニンダの人たちは、地域で育てるために進学されるために独自の奨学金などを作っており、それが沖縄の偉人を生んでいる一つの背景になっているのではないか?と思った。


山城さん
4歳の子どもがいるが、どうしても母親の影響を受ける事が大きい。
父親として教えたい事が出来る事と出来ない事があってもどかしい所がある。
子どもは、親が教えた世界がすべてになる。だからしっかり教えていきたい。
教育という意味でも一緒に入れるときは時間を作っていろいろと話をしていきたいと思った。


大城さん
子ども達を教えて導きなさい。
という事が大人が引っ張っていくように見える。
しかし、最後の方であるように、親の想いが強い程、その方向性とは違う所に行くのでは?と感じた。
最近、沖縄に帰った際に白石氏の話を聞いた。
親がするべきことは、背中を見せていくべき
という意見があって感銘を受けた。
今は自分が学び、自分を磨いていきたいと思った。


當間さん
姪っ子は、母親が許してくれないので、自分はこうしたい。ああしたいと言ってくる。
「可愛がって苦労させないという事が親の恩といえるだろうか」
とあるが、自分は親からいい意味で可愛がってくれて恩恵をもらったので、自分に子どもができたら何でもさせてあげれれるようにしていきたい。
小さい頃から自分のルーツを教えてもらったから、川崎県人会でも話せる事ができた。


藤木さん
教育とは何か?という
コミュニティの最小は家族である。
それが大きくなったのが会社とかになる。
一番基礎の教育を抑えている。
黄金がどれだけあっても、今の車の会社のようになってしまう事もある。
これを実行する事が出来れば、どんな時代も恐れずに生きて行けるようになるのではないだろうかと感じた。
いろんな場面でこの文章を思い返していきたいと思う。


仲村さん
この文章を読む度に感じる事は違う。
「子や孫に失敗を教えない事」
とあるが、特に男性は自らの失敗は語らないだろう思う。
武勇伝は言うが、失敗は言わない。
自分の失敗談を語れる状態になっていない。
それを作っていきたいと思った。
師匠に言われた事があるが、
「気配り」と「おせっかい」は紙一重という意見があった。
ええ頃加減で手を差し伸べるのが重要だと言われた。

六諭衍義を現代に置き換えたら、学んだことを子や孫にどう伝えていくか?
が重要だと感じている。
ももじゃら大学の考え方にも精通していく。
共に学びながら、という考え方を持ってやっていきたい。




3.研究課題:久米村について
長崎さん
久米村について
こういう事があったのをご存知ですか?

仲井真氏:知事選一期の選挙
「自らが中国帰化人「蔡家」の出身であることを選挙リーフレットに誇示している。」


稲嶺氏:選挙戦の際
「自らの出自が中国帰化人「毛家」の子孫であることを誇っており、中国への配慮を示していた。」


惠隆之介氏の著書
「新・沖縄ノート 誰も語れなかった沖縄の真実」より


久米村について
久米村は、安里川(あさとがわ)・久茂地川(くもじがわ)・国場川(こくばがわ)、そして海によって囲まれた島「浮島(うきしま)」の一角に、中国からの渡来人が住み着いてできた集落である。方音で「クニンダ」という。

久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)について
1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現・福建省の中国人)の職能集団、及びその後三百年間にわたり閩から渡来した者や首里・那覇士族から迎え入れた人々の総称。
閩(びん)と呼ばれた現在の福建省からの渡来人であったため閩人三十六姓とも呼ばれた。


1392年の中国について
洪武帝(朱元璋)1328年ー1398年
この人物の影響が沖縄との取引に大きな影響を与えていると考えられる。

中国の歴史上、農民から皇帝になったのは
漢の劉邦(高祖)と朱元璋の二人である。

安徽省の貧しい農家の6人兄弟の末っ子として生まれた。
17歳の時、飢饉で両親と長兄を亡くし、兄弟も離ればなれになった。
彼は食うために出家して寺に入ったが、寺も食料が乏しく、乞食僧となって放浪しなければならなかった。24歳の時、紅巾の乱が起こると、郭士興という首領の一人が率いる白蓮教の反乱軍に加わった。
その中で頭角を現していった。

1368年に南京で即位した朱元璋は、国号を明、年号を洪武とした。
モンゴルの支配と元末の騒乱で荒廃した国土の復興と、皇帝権力の強化に努め、彼がうちたてた皇帝独裁のもとでの中央集権体制という政治体制は、明と次の清の約600年に及ぶ中国の支配体制として辛亥革命で清が倒れるまで存続した。
また対外政策では、海禁政策を採って貿易は朝貢貿易のみを認め、中華帝国の再現を図った。

皇帝専制政治体制の樹立
皇帝独裁(専制政治)体制をつくりあげるため、1380年には中書省廃止、六部を直接統括。
皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなった。

農村の復興策
モンゴルの支配と元末の農民反乱で荒廃した農村の回復に努め、漢民族社会の農業生産を掌握するため、里甲制という行政組織を整え、租税台帳として賦役黄冊を作成、さらに土地台帳として魚鱗図冊を全国土で作成して、租税徴収体制を作り上げた。

中華帝国の再建
明律・明令の制定するとともに、朱子学の理念に基づいた道徳規範として六諭の頒布するなどで体制の維持をはかった。皇帝の絶対的な権威のもとで農業社会を治めていくという、中華帝国の再建を目指し、宋・元の貿易推進策をやめて海禁政策を採り、諸外国には朝貢貿易のみを認めた。

洪武帝、一日に632件を処理
建国の功臣でも疑わしいところのあるものを次々に粛清した。1380年の「胡惟庸の獄」(朱元璋時代の第一の腹心の部下であった胡惟庸という人物を権力を簒奪しようとしたとして捕らえた)では1万5千人が、さらに1390年にはその陰謀が再燃したとして1万5千人が捕らえられ、処刑された。
行政文書はすべて自分で決済した。一説に拠れば、一日平均632件の案件を皇帝として裁決したという。その後から宦官は重く用いられるようになり、明の内政・外征に介入するようになっていく。


中国と琉球はいつから交流があったのか?
琉球と中国の交流は、1372年、琉球国・中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ朝貢したのが始まりだといわれている。これに対し中国からは冊封が行われ、以来、廃藩置県までの五百年間に渡って「冊封・朝貢関係」をベースに琉球と中国の関係は続けられた。

明朝はそれまで私的に貿易を行っていた海商たちが密貿易をして海賊化することを恐れていました。そこで琉球を有力な交易国家に育て、彼ら民間海商を琉球の公的貿易に参加させることで合法的に活動する機会を与えようとしたのです。



久米三十六姓について
・福建人ではなく、福建省出身の客家が大多数であったことが明らかに。

・彼らは那覇の久米村(現・那覇市久米、唐栄とも)に定住したことから久米三十六姓と呼ばれるようになる。

・三十六姓は三十六人いたわけではなく、当時の中国では「三十六」はとても多い事の意味で、その中国から大勢の人が来たためそう呼ばれた。
一時は五姓にまで減ったとも言われている。また久米三十六姓の末裔、及び久米村に住んでいた人々は久米村人(くにんだんちゅ)と呼ばれた。

・久米三十六姓の末裔たちは、琉球が廃藩置県で沖縄県になるまで約五百年の間、主として中国-琉球間の外交、貿易に従事し、久米士族としては異例の三司官に就任した蔡温をはじめ、多くの政治家、学者等を輩出した。

主な氏名
・蔡氏
・程氏
・鄭氏
・林氏
・金氏
・毛氏
・紅氏
・楊氏
・魏氏
・陳氏
・梁氏
・阮氏
・王氏

主な人物
謝名 利山(じゃな りざん、1549年-1611年)
琉球王国の政治家、薩摩侵攻の際の対応。

程 順則(てい じゅんそく、1663年-1735年)
第二尚氏王統の琉球王国の士族。琉球で最初の公的教育機関となる、明倫堂(1714年開設)の創設を建議。六諭衍義の普及。

蔡温(さいおん、1682年- 1762年)
琉球王国の政治家。知行合一、備瀬のふくぎ並木を作る。


現在の久米三十六姓
至聖廟(しせいびょう)
沖縄県那覇市久米にある日本最南端の孔子廟である。孔子の他に四配(顔子、子思(孔伋)、曾子、孟子)の像が祀られている。
17世紀初頭より久米三十六姓の人々によって儒教の祭典が行われていたが、尚貞王の時の1676年になって、那覇泉崎の地に建立された。以来、教育機関の明倫堂とともに戦前までその威容を誇っていた。

久米崇聖会(くめそうせいかい)
12世紀以降の明や清の時代に現在の中国福建省から琉球王国に渡来し、久米村(クニンダ)に定住していた華僑(久米三十六姓)の子孫による親睦団体。沖縄県那覇市に本部がある。
大正3年(1914年)5月11日に設立され、2016年に100周年を迎えた。
蔡氏(蔡氏門中会)、程氏、鄭氏(鄭氏会)、林氏、金氏、毛氏(久米國鼎会)、紅氏、楊氏、魏氏、陳氏、梁氏(久米梁氏呉江会)、阮氏(沖縄阮氏我華会)、王氏(王姓門中会)



山城さん
久米三十六姓について
至聖廟(しせいびょう)、久米崇聖会(くめそうせいかい)について
その団体の門中の現在の活動と概要について



高良さん
近代以降の久米系末裔の推移
李鳳娟『現代沖縄における「久米系末裔」の人々のアイデンティティに関する一考察』を参考に

琉球処分から戦前まで
・琉球処分以後、日本同化政策により、中国的なものを数多く失う。「伝承の断絶」
・朝貢貿易に重要な一翼を担った久米人は活躍する場を失う。
・久米人の多くは中国の武力介入による王国復興を願っていた。
・脱清人124名中、久米村出身者は34人。
・日清戦争の日本勝利により、中国の東アジア支配体制は崩壊、琉球復旧運動も終焉。
・久米人は官人組織としての社会的地位を失い、沖縄社会に溶け込み日本化する。
・経済的にも悪化するが久米の伝統文化を守ろうとする動きも出る。
・孔子廟、明倫堂の修復。
・1914年、社団法人久米崇聖会の結成。
・「久米村の動きは止まり、中国的なものをひた隠しにしてきた。家庭的な慣習を除き唯一残したのは釈奠」

釈奠
・釈奠(せきてん/しゃくてん/さくてん)とは、孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと。儒祭・孔子祭とも。
・社会の変化により、多くの伝統を失った久米人にとって、中国的習俗の核心として儒教の祭祀が残った。

米軍統治期
・1944年、10.10空襲で孔子廟含む久米村関連の遺跡の多くが消失。
・戦後の混乱で久米系末裔は久米村から離散。
・一方、アメリカ施政のもと、脱日本化政策が進み、琉球文化の復興が始まる。
・中国的なものを隠し続けてきた久米系末裔の動きが再び活発化する。
・戦前から門中としてグループ化していた久米系末裔は、模合によって蓄えた共有財産で不動産経営を行い、その収益を門中の行事費用や子女への奨学金に充てた。
・1960年、毛氏門中は社団法人久米国鼎会を結成。
・久米崇聖会は1962年に法人として復活認可される。

日本復帰後
・久米村の琉球史における重要性が再評価される。
・門中の動きはさらに活発化し、毛氏以外の複数の門中も法人化する。
しかし、久米系末裔は沖縄に完全に溶け込み、中国出自の系統だという意識は持っているが、若い世代ほどそのこだわりは薄くなりつつある。

今後の課題
李論文後半部分の読み込みと、その参考文献から久米系末裔のアイデンティティとそれを起因する門中組織化の推移を追いかけていく。



仲村さん
研究課題テーマ設定 久米村
陰の王国 那覇朱明府~華僑は沖縄も支配していた~
興味深い久米村出身者
懐機
程順則
謝名利山
蔡温
「歴代宝案」を秘密にしていた朱明府


陰の王国 那覇朱明府~華僑は沖縄も支配していた~
異説 沖縄史 太田良博著
 官製移民の琉球華僑
 ・明国の出先機関としての役割
 ・史料「明実録」には記載なし
 明国の高度技術をもたらす
 インテリとして政治的活

興味深い久米村出身者
懐機
国相 懐機は、明国から派遣された人で、尚巴志の右腕となって覇業を助け、琉球の発展に大きく寄与した人物。道教思想を持ち尚思紹・巴志、忠、恩達、金福に王相(国相)として仕えており、死去後の金福以後の波乱は懐機不在に起因するとも。

程順則
17世紀後半から18世紀前半にかけて活躍した、国際的な教育家。六諭衍義を移入し琉球国内で出版。のちに琉球国のみならず、日本全国に普及し、寺子屋などでも、修身の教科書として使用し国民の道徳観の形成にもつながる

蔡温
17世紀後半から18世紀後半にかけて活躍した政治家。琉球王朝役人の最高位である三司官になった蔡温。才能は、政治の世界だけでなく、農業、林業、行政、科学、思想、学問という多くの分野にも発揮。

謝名利山
島津氏に対し抗戦を貫いた不屈の政治家。
一六〇九年に薩摩藩の島津氏が琉球に侵攻したときの三司官(宰相)で、断固抵抗の姿勢を貫いた人物。

久米村出自で活躍した人々を知る。


「歴代宝案」を秘密にしていた朱明府
琉球国の外交文書。1424年から1867年まで約440年間にわたって中国を中心とし、朝鮮、東南アジア諸国との往復文書で約5700文書を収録。琉球の対外交易を知る上での第一級史料。

南洋各地との交易、発覚は昭和7年(1932年)
誰も知らなかった史実
徹底した秘密主義

歴代宝案が久米村で継承された背景を知る











藤木様、ありがとうございました。



次回第64回沖縄ももじゃら大学
■日時:6月11日(土)
■時間:10時~
■場所:東京都杉並区梅里1-7-7 SKTビル2F
     最寄:丸の内線【 新高円寺 】(フジモト株式会社 会議室)

1.うちなーぐち
2.六諭衍義
3.研究課題:久米村について②