『失われた青春の三十年』を過ごした男の恋愛術・・・(苦笑) | 生命とは焔ーひーのたまゆらに揺れる糸仄かに霞む閨ーねやーの通い路

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和歌や詩の創作、小説の構想、性格学や進化ゲーム理論などの研究を掲載。

僕は自分で言うのもなんだが、小学三年生ぐらいの時は彼女もいて、学業も部活も順調だったリア充だったが、トラウマな出来事により深い心の傷を負い、30年の黒歴史を経て、脊損による治療行為の一環によってトラウマを克服し、今ようやく失われた青春を取り戻すことを愉しんでいる。

で、黒歴史の時期には恋愛を倫理的に考えすぎて恋愛はいかなる時でも一途でなければならないと思い込んでいたが、失われた青春を取り戻すに際して、『5人の女を好きになれ。そうすれば、一人にフラれても新たに好きな人を補充すればいいだけだし、余裕のある恋愛が出来る。終いにはお前は誰の事が好きなのかわからなくなるだろう・・・』という最新の恋愛攻略本に書いてある事を、「誰が好きかわからないってもはや恋愛じゃないだろ・・・」とツッコミつつ騙されたと想って実践してみると確かに心に余裕は出来る。

一人の女性に入れ込みすぎることもないからストーカー扱いはされないが、今度は女にだらしない人間のクズの浮気者扱いされるようになった。

どっちもどっちだなあ・・・と想いつつ、今その中庸を模索しているところだが、ところで間違いなく多くの人は当たり前だろと想うに決まっているが、失われた30年を過ごした俺にはわからなかったことが最近わかった。

それは、「女に誕生日を訊いて、答えてくれるかどうかで、脈がないかどうかがわかる」という恋愛術(苦笑)だった。

よく考えるまでもなく、当たり前である・・・。

男が女に誕生日を訊くという事は、女の誕生日に男がなにかしらちょっとばかり特別な事をしたいと言っているのとほぼ同義である。まあ、少なくとも口頭でお祝いはしたりする。

同性同士だったら気軽に教えあえるなんてことのない情報だが、異性となると、「私がこの男に誕生日を祝われたい・・・例えばプレゼントをもらいたい・・・ひょっとすると誕生日を一緒に過ごす相手」と思えるかどうかということを考える。

ひょっとしたらその時には彼氏が出来ているかもしれない、とかなんだかんだいろいろ考える。

で、そこで誕生日を教えるということは、「まあ少なくとも人生の特別な日をこの人に祝われてもいいか・・・まあ、仲良くなったらプレゼントぐらいもらってやってもいいか・・・」ぐらいの気持ちは持っているという証拠だ。

逆に言うと、誕生日を教えないということは、残念ながら有り体に言ってしまえば「表面上は仲良くしてやってるが、こんな奴と一線を超えるつもりは全くない。この男は私の誕生日を穢そうとしている下衆だわ・・・」ぐらいに思われてしまっているということである。

勿論誕生日を公表しているオープンな性格な人もいるので、つまり、誕生日を教えてくれたからといって必ず脈があるわけではないが、少なくとも誕生日を教えてくれない女性に脈はないというのが悲しい恋愛の真実である。

だから僕は自分なりにある程度異性と親しくなる努力をしたら、必ず誕生日を訊くようにしている。

それで教えてくれない人は、友達ですらなく、ちょっとだけ知り合い程度に過ぎない仲だと諦めてどんどん他の魅力的な異性と交遊して、この人だと思って、相手も好意を持ってくれているなと確信したら一途になろうと想いながら恋愛している。

・・・これ、間違いなく普通の人は読んで当たり前だろと想うよね(苦笑)。

ともかくおっさんになってから青春を始めるというのも案外いいものだ・・・。

人生経験をそれなりにしてきて、更にこんな体だから性欲に支配されることもなく、実に健全に青春や恋愛を愉しめる。

それと僕は大学や大学院で色事があって人間関係が壊れたり出世の道が閉ざされる一因になったりしたので、原則的に職場恋愛はしないと固く心に決めている。