バターン死の行進の責任を問われて処刑された本間雅晴陸軍中将夫人富士子さんについて
フェイスブック友達の永井 とさんの投稿より転載します。

 ◆本間中将の銃殺刑は、マッカーサーの復讐の為に、ちょうど四年前、本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。 本間雅晴陸軍中将02

◆マニラ軍事法廷の最終日の最後に、本間雅晴陸軍中将の夫人である本間富士子(当時、四十二歳)が弁護側証人として証人席に立った。 本間雅晴陸軍中将夫人富士子01 「私は東京からここへ参りました。

私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。 私には娘がひとりおります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり会い、結婚することを、心から願っております。 本間雅晴とはそのような人でございます。 本間は、小さなことでも逃げ口上を言う男ではございません。 彼は心の広い人で、細かいことにこだわりません。 また彼は平和的な雰囲気を創り出し、その中で過ごすことを好みます。 彼の行為はすべて、このような姿勢に基づいているのです。 たとえば、外で嫌なことがあっても、彼は、けっして家に持ち込んだことはありません。常に微笑を浮かべて帰宅しました。 本間はそのような性格の人です。 彼の趣味の第一は、読書でございます。古今東西の書物を読みます。また詩作もいたします」

彼女は、マニラの気候に合わせ、夏向きの和服姿で、終始、理知的な表情を崩すことなく毅然とした姿勢で証言をした。

◆この言葉が通訳によって伝えられると、法廷のあちらこちらからすすり泣きの声があがり、米軍検察官の中にも感動のあまり涙をぬぐう者がいた。

そして本間中将自身も、妻の自分に対する絶対的な尊敬と愛の言葉に接し、ハンカチを顔にあて嗚咽していた。

当時の法廷の様子を描いた諸記録が伝えるところである。

◆終戦直後のマニラは、日本人とみれば罵声が浴びせられ、石が飛んでくるほど、反日感情が充満していた。

しかし、夫人の証言を聞いたフィリピン人たちまでもが、証言を終えた彼女に争って握手を求めた。

翌日のマニラ・タイムスをはじめとする地元紙も、彼女に対する好意に満ちた記事をこぞって掲載した。

◆《夫人が東京からマニラへ出発する時の新聞記事》

◎「本間がどういう人間であるか、真実の本間を全世界の人々に一人でも多く知っていただきたいのです…裁判の結果などは念頭にありません」

◎「私の責任の重大さは十分認識しています。

日本の家庭婦人としての面目を少しでも傷つけるようなことがあったら日本の皆様に本当に申し訳ないことだと思います。

日本の女として初めて世界の視線に立つだけの覚悟は十分致して参るつもりでおります」                     

彼女は、夫の命乞いではなく、“日本の誇り”を決然と示すため、マニラに行った。

◆夫人は、帰国する直前の夜、夫と最後の面会を行った。

時間は三十分と制限されたが、監視役の米憲兵大尉はわざと酒に酔い、二時間後に帰ってきた。

夫妻のために時間を作ったのである。

本間を身近に接した米軍人は、いずれも彼に敬愛の念を持つようになっていた。 本間雅晴陸軍中将03

◆今 日出海(こん ひでみ、明治36年生。初代文化庁長官)は、

帰国直前に本問と面会した際、本間が収容されていた房に、警備のMPが自分の小遣いで買って差し入れたチョコレートの缶の山を見ている。

また、MPが「あんな立派な人に接して名誉だ」と語ったことも記している。

◆この裁判がどういったものかよく現しているのが、

昭和20年12月18日の起訴状を読み上げるに先立ち、

首席検察官フランク・E・ミーク米陸軍中佐が裁判官たちに向かって、

この訴訟手続きは厳密に法律的なものではないことになっていると通告した。

そして、マッカーサーの定めた裁判規定の一節を読み上げ、裁判官に注意を促している。

つまるところ、マッカーサーは、裁判の判決が気に入らなければ、その決定をほとんど完全に無視することができるというわけである。

「マッカーサーの復讐」として、結果は決まっていると言っているのである。

◆最終弁論にたった本間の弁護人スキーン少佐は、

最後に凄まじい警告を持ってその弁論を締めくくっている。

『我々弁護人全員は、本間将軍の誠実さと高潔さを完全に信ずるにいたり、彼の代理人たることを誇りとするものであります。

(中略)

もし彼の生命が奪われるようなことになるならば、世界は、平和の維持に多大の功績をなし得る一人の人物を失うことになるのであります』。

◆紀元節の2月11日に、判決が下され、

処刑は、4月3日午前0時53分。

ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。

この日にち合わせは、マッカーサーの復讐心を物語っている。

史上最年少の米国陸軍参謀総長を務め、フィリピンを第二の故郷と呼ぶマッカーサーにとり、バターン半島で傷つけられた誇りへの復讐の念が深くこもっていた。

のちに連合軍総司令官として厚木に乗り込んだマッカーサーの使用機は「バターン号」と名付けられていた。

本間中将を裁く5人の裁判官は、いずれもバターン半島で日本軍に白旗を揚げた将校だったことでも、裁判という名前の復讐劇だった事がよくわかる。

◆東京に進駐してきたマッカーサーは、判決後の3月11日に、弁護人ファーネスト大尉とともに尋ねてきた富士子と会い下記のような会話をしている。

「あなたが最後の判決をなさるそうですが、そのときは裁判記録をよくお読みになって、慎重にしていただきたい」

「私の任務について、あなたが御心配なさる必要はありません」

「夫の裁判に関する全記録をいただきたい」

「よろしい、コピーをとってあげましょう。生活に不自由なことがあれば、なんでも援助したい」

「お気持ちだけで結構です」

富士子夫人は、夫である本間中将の助命を嘆願にいったのではない。

裁判記録をきちんと読めば「りっぱな軍人である」死刑になる理由などないと確信していた。

後日、富士子夫人はこの日マッカーサーと会ったことについて、

「本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。

あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」

と語っている。

◆マニラに連行されて以来3か月の間に、本間は待遇のせいもあろうが、

別人のように痩せ衰え、やつれ果てていたが、

4月2日の日没時、カンルバンの収容所から、刑場ロス・バニョスに運ばれた時の本間は、日本の将軍としての威厳をとりもどしていたという。

刑執行の前、彼はビールと、ビフテキとサンドイッチを要求し、さらにコーヒーを注文した。

そしてトイレに行き、「ビールとコーヒーだけはアメリカに返した」と笑ったという。

「目隠しはいらない」と本間は言ったが、強引にかぶせられた。

黒い袋をかぶせられたまま、「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳」と三唱し、日本の方角へ向かって最敬礼をした。

本間の心臓部には4インチの白い標的がつけられた。

この時米軍の軍医は、本間の心臓が、平常通りの速度で鼓動していることを知って驚いたという。

◆《辞世の句》

「戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよ志」

「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」

「予てより 捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく」

享年58歳。
本間雅晴陸軍中将

本間中将の長女尚子さんの悲願であった将軍の慰霊碑が、将軍終焉の地であるロス・バニョスの刑場跡に建立され、鎮魂の旅が、昭和49年3月24日から27日まで当時第14軍の参謀であった6名の方を招待し行われた。
※「酒たまねぎや」さんのHPから抜粋、追加。

《参考及び引用文献》

◎「正論」平成十七年七月号に掲載された米田健三帝京平成大学教授の「米軍検察官が泣いた 凛とした本間雅晴中将夫人の『戦犯』法廷証言」

◎「将軍の裁判」ローレンス・テイラー著 立風書房 昭和五十七年刊

◎「南十字星に抱かれて」福富健一著 講談社 平成十七年刊
----- ----- ご参考 ----- ----
●「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、マニラ裁判で死刑になっている。でもこの行進はトラックがなかったからで、日本兵だって歩いていた。決して捕虜を殺すために歩かせたわけではない。


●ここで重要なのは、フィリピン戦でマッカーサー軍は本間軍に破れており、マッカーサーは命からがらオーストラリアに逃げている。これは「復讐」である。
     《渡部昇一 「自ら国を潰すのか」》
   渡部昇一(他著書「決定版人物日本史」)



●自分たちでさえろくに食べられないでいた日本軍に、いきなりその統制下に入った8万の捕虜に十分な食糧を与えられる余裕があるはずはないし、ましてこれだけの人数を運ぶトラックやガソリンも持っていなかった。食うや食わずでひたすら歩くのが日本軍の常であったため、これを虐待だとは思わなかった。
      《若槻泰雄 「日本の戦争責任」》
    (他著書「『在中二世』が見た日中戦争」)



●敵の大将マッカーサーはさっさと逃げ出し、残った7万将兵も殆ど消耗なしで手を上げた。そんな大人数を運ぶトラックなんて持ち合わせがあるでなし。で、彼らを歩かせた。1泊2日で80キロの行程だ。
西村知美だって日テレの「24時間100キロマラソン」を走っている。大の米兵がそうしんどがる距離ではないと思う。

●笹幸恵女史が「バターン死の行進」を歩いてみた。「風邪気味でも歩けた」と文芸春秋で書いている。
バターンでは休息もなかった、休めば日本兵が銃把で殴りつけた、彼らは疲労で倒れた捕虜を容赦なく殺した、という。日本軍はそんな振る舞いはしないし、だいたい80キロを徹夜で歩いたわけでもない。一泊している。そんなゆるい死の行進があるだろうか。

●そう呼べるのは、例えばチェロキー・インディアン1万5千人をジョージアからオクラホマまで2千キロを歩かせたケースくらいではなかろうか。
冬をまたぐ半年の過酷な旅で、死者は8千人を数えた。米国ではこれを「Trail of Tears」(涙の旅路)と呼ぶ。 
       《高山正之 週刊新潮2008/7/3》



●『大東亞戦争 陸軍報道班手記-バタアンコレヒドール攻略戦』(→焚書)の中で、「バタアン半島總攻撃従軍記」と題する長い文章を書いているのは作家の火野葦平である。彼はその中で敵の食糧不足を指摘している。これはいったいどういうことなのか…

●日本軍はバターン半島を北の方から南に向かって攻めていく。大量の敵がバターン半島の尖端にあるコレヒドール島の方へ逃げていき、そこにたてこもったからである。
アメリカ軍とフィリピン軍は雪隠詰めのような格好でコレヒドールに追い込まれてしまう。その数は両軍合わせて8万3千。そこに、なんと2万6千もの難民、民間のフィリピン人も逃げ込んだ。だからたちまち食糧問題が深刻になってしまったのである。

●米国の「オレンジ計画」(対日戦争計画=管理者注)では、もし日本と戦争になったら、フィリピンは必ず日本軍の攻撃を受けるに違いない。そのときは首都マニラを捨てて、バターン半島に立てこもって迎え撃つ、コレヒドールの要塞は難攻不落だ。それがこの計画の考え方だった。

●昭和16年12月8日、ハワイが日本軍の攻撃を受ける。そのニュースをマニラで耳にしたマッカーサーは、「どうせアメリカの大勝利に決まっている。ジャップはさんざんな目に遭っているはずだ」といって知らん顔をしていたという。
副官がしきりに、フィリピンからB17の編隊を飛ばして台湾を攻撃するように具申するが、マッカーサーはそうしない。そのうち、台湾を飛び立った日本軍の大編隊がやってきて、米軍の飛行機はみな叩き潰され、飛行場も使いものにならなくなってしまった。

●マッカーサーは「オレンジ計画」通りに行動する、と宣言している。つまり、主力部隊をバターン半島に撤退させ、難攻不落のコレヒドールに立てこもる。当然、食糧が大きな問題になるはずだが、どうも米軍にはその用意がなかったようである。
…「死の行進」の前提になった飢えは、米軍の戦略の間違いにあるのではないのか。

●そうした流れの中で、日本軍は4月9日にバターン半島を完全攻略、米極東軍司令官ウェーンライト中将は無条件降伏を申し出てくる。マッカーサーは戦局不利と見た3月中旬、コレヒドールから魚雷艇を利用してミンダナオ島へ逃げてしまった。さらにそこから飛行機でオーストラリアへ逃走している。
“I shall return”という有名な言葉を残しているが、ともかくも将軍が真っ先に逃げ出してしまったのである。フィリピンのケソン大統領も一緒に逃げている。

●そのあといわゆる「バターン死の行進」になる。半島の南端にあるマリベレスから後方のサンフェルナンドまでの112キロを米比軍の捕虜に歩かせたら、2千人以上の死者が出たという出来事である。

●しかし考えてみるに、前年12月のマニラ陥落から4月11日の降伏までの間に、長い期間がある。この間、米比軍は食糧不足にあえいでいたのだから、わずか100キロ余り行進させられただけで倒れてしまったのは、基本的にはコレヒドールの要塞に立てこもるという「オレンジ計画」にのっとった作戦の失敗、というべきではないだろうか。アメリカ軍が食糧不足で体力を失っていたのだから。

●また、飢えとマラリアで苦しんでいる傷病兵を歩かせたために2千3百余人の兵が死んだ、ということになっているが、その最大の原因は、日本軍・米比軍ともに死闘を演じて体力を消耗しきっていた直後のためだと思う。
     《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封2」》
 



●第14軍参謀長・和知鷹二中将は戦後次のように述懐している。
《水筒一つの捕虜に比べ、護送役の日本兵は背嚢を背負い銃をかついで一緒に歩いた。できればトラックで輸送すべきであったろう。しかし次期作戦のコレヒドール島後略準備にもトラックは事欠く実情だったのである。決して彼らを虐待したのではない。もしこれを死の行進とするならば、同じく死の行進をした護送役の日本兵にその苦労の思い出話を聞くがいい》 (産経新聞 平成9年4月6日付)

●地元フィリピン人から聞かされた話によると、日本軍は「バターン死の行進」の終着点といわれるサンフェルナンドからカパスまで捕虜を汽車で護送しており、捕虜達を虐待するために故意に歩かせたのではなかったというのだ。

《井上和彦 「日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争」》



●「バターン死の行進」…米側は「日本軍は歩けない者を殴り殺した」「差し入れする原住民を射殺した」と罪状を述べるが、日本側の記録は違う。
「炊き出しして捕虜に食わせた」「米兵が煙草をくれた」と、増田弘『マッカーサー』にある。
      《高山正之 週刊新潮2009/10/15》



●アメリカは、インディアンを強制移住させたときも、徒歩行進させて万単位の死者を出しているにもかかわらず、それは“トレイル・オブ・ティアーズ”だという。「涙の旅路」だと。

●第二次大戦で自分たちが日本軍に敗れてバターン半島を捕虜として歩かされたら、それは“デス・マーチ”だという。あちらは「涙の旅路」で、こちらは「死の行進」だとは、逆じゃないかと言いたい。インディアンを、女子供まで含めてジョージアからアリゾナまで雪の降る冬をまたいで、千何百キロ歩かせた。こっちはその何十分の一なのに。
  《高山正之 「日本はどれほどいい国か」》