(歩一〇四記念講演特集号より)
(略)また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
貞明皇太后1
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。
この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)
などとはご卑怯ではありませんか。
退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
「陛下の万歳を叫んで死んでいった
護国の英霊の労苦を労いなさい、
遺族の労苦を労いなさい、
産業戦士の労苦を労いなさい」
――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。
ご行幸、広島
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、
北陸のある所(福井市)においては共産党が、
「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」
とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、
「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 
と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。
でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、
はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――
はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました
(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。」
1946年10月

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~~~ ココ迄、引用 おわり ~~~
昭和天皇の戦い 加瀬英明 昭和天皇皇后のスリッパ02
昭和天皇の戦い 加瀬英明
■愛情主義の模範を天皇は示されました。 天皇は独裁者ではなく一家の父母のような存在です。 親は家族全体の幸せを願い、家族は親孝行を目標に頑張るものです。 家庭の当然の姿です。 その家庭を大きくしたのが日本の国です。 他国の君主は恐怖で統治します。 日本の天皇は違います。 天皇は温かい愛に満ちた 親のような存在であり、 国民は子供に該当します。 
万世一系