三島由紀夫は生前澄んだ瞳で、こう話しました。
自分が大義の為に死ぬと決めていた戦争中は幸福だったと。
死と一番親しかった十代は(二十歳で終戦を迎えた)、頭の中には常に
「何時死ぬか?どうやって死ぬか!?」だけしか無かったのだと。
逆に、自分の為だけに生きて、自分の為だけに死ぬ生き方は「強くない」と断言しました。そういった生き様には倦怠感が伴う。
何か尊い価値のあるもの『大義の為に死ぬ』のが、人間の最も立派な死に方だと考える。
・・・彼が自決をする4年前、41歳の時の言葉です。
https://www.youtube.com/watch?v=hLGMm6c_BCA
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確かに、特攻隊が散華する時の表情は、皆突き抜けた笑顔をしています。
彼らはこう言いました。
「今日、死ぬことが最高の生き方です」と。
悠久の大義に生きた日本人は、特攻の時に笑顔になれる民族なのです。
日本民族の幸福感は他との比較ではない「絶対的幸福感」なのです。
テレビや新聞は、大東亜戦争について日本を悪く評価しますが、そこには全く根拠がありません。
価値は目的によって決まります。
その民族が、如何なる動機(目的)で戦争を戦ったかによって、価値評価は為されるべきです。
三島由紀夫の話から戦時中の二通りの「死に様」を連想させます。
●大義の為に命を捧げた、愛情主義(与える)=絶対的幸福感=日本=真の強さ
●自分の為だけに生きる、我欲主義(奪う) =相対的幸福感=欧米列強=弱い
【絶対的幸福感と、相対的幸福感】
欧米列強が行ってきた植民地支配による相対的幸福感は
他人から奪い相手の不幸を前提として、他との比較で幸福と思う…醜いものです。
この西欧列強のように比較による優位性から幸福感を感じるものは一時的、刹那的です。
一方、絶対的幸福感とは三大聖人(釈尊、孔子、イエス)がそうである様に
たとえ貧しく、或いは劣勢で、客観的に見たら不幸のように見えても
宇宙の至高の存在(神、仏、天)から自分は愛されているという満足感があります。
黙示録の天国の描写は、「神さまが人間といつも共におられる実感のある生活をする」ことを言っています。
黙示録 21:3-4
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
幸せとはダイアモンドに囲まれ、甘いイチゴの大きさが十倍もあり、金塊が山積み…なのではなく、
ただ神さまが共にいて下さること。
【日本が戦争をした目的】
さて先ほど「価値は目的によって決まる」と言いました。
以下一次史料(5点)より、日本が戦争をした目的を確認します。
①「開戦の詔勅」
https://www.youtube.com/watch?v=6LzFrC7GGFo
②東條英機 1941年(昭和16年)12月08日
現代語訳 https://www.youtube.com/watch?v=410MICuK46A
④大東亜会議共同宣言
⑤1941年11月17日 東條英機内閣総理大臣 施政方針演説
【目的に副って戦った結果】
■「終戦の詔勅」