《親しい仲だからこそ”なれなれしさ”を慎め》

 

親しい友人や同僚その他知人との間でも、それ相応の礼節を守らねばならない。ところが面識のある同等の人々の間には、一種の競争心が潜み、他をしのごうとする心があるから、とかく相手の短所を見つけようと努め、礼節が行われにくくなる。ことに友人同僚に対して少しでも礼節を正しくすると、

『友人を他人扱いする』

 

と言って非難する者もあり、とかく礼節がゆるがせにされやすくなるものである。しかし、友人同僚らに対する礼節は、あくまでも守らねばならない。英国のことわざに、

『なれなれしくすれば卑しめられる』

 

とある。親しいからと言って、礼節を守らなければ、かえってその友情が破られる。(中略)とかく人は陰で他人の悪口を言いたがるが、面前で言うのをはなはだ嫌がる。しかし、友を思う誠意誠心があるならば、陰口をたたかず、直接に面前で警告すべきである。ところが実際は、ここまで友情の進む例はきわめて少ない。英国のある名士の言葉に、

『面前で悪く言っても、背後でよく言う者こそ、真の友人だ』

 

とある。

 

友人

 

新渡戸稲造も、英国の名士も、同じことを言っている。

 

うらやんだり妬んだりしてしまうなら
早稲田大学商学部を卒業後、様々な経歴を経て、クリスチャン女性の国際的なグループ『Aglow International(アグロー・インターナショナル)』に所属する中村芳子の著書、『聖書88の言葉』にはこうある。

言葉にならない時、となりにいることが友情だ

 

愛する人を亡くした友人を、どうなぐさめたらいいか分からない時がある。病気になった友人が落ち込んでいる時に、かける言葉がみつからない。そういう時、言葉は上滑りしてしまう。よかれと思ってかけた言葉で、かえって傷つけてしまうこともある。そんな時は言葉を忘れよう。ただそばにいて、その悲しみを一緒に感じよう。

 

(中略)ついうらやんだり妬んだりしてしまうなら、そっと場を離れよう。悲しみや喜びを素直に分かち合えない、そんな自分を認めることも、きっと大切だ。

 

『聖書』

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12:15)

 

嫉み、嫉み。その様な感情が生まれてしまうのは『当たり前』だという常識が蔓延しているが、この様な選択肢もあるのだ。その人物のために、自分からそっとその場を離れられるか。それぐらいの覚悟があれば、その人への思いは、あながち軽いものではない。

 

友達を必要としない人間
アドラー心理学に造詣の深い岸見一郎・古賀史建の著書、『嫌われる勇気』にはこうある。

哲人『あなたには親友と呼べるような存在がいますか?』

 

青年『友人はいます。でも親友と呼べるかというと…』

 

哲人『わたしもかつてはそうでした。高校時代のわたしは友人をつくろうともせず、ギリシャ語やドイツ語を学び、黙々と哲学書を読みふける日々を送っていました。そんなわたしを不安に思った母が、担任の教師に相談に行ったことがあります。すると教師は『心配いりません。彼は友達を必要としない人間なのです』といってくれたそうです。この言葉には母もわたしも大いに勇気づけられました。』

 

青年『友達を必要としない人間…。では、先生は高校時代、ひとりの友人もいなかったのですか?』

 

哲人『いえ、ひとりだけ友人がいました。(中略))友達が多いほど良いと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。これは愛のタスクともつながる話しですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。』

 

友人というものは、数ではない。