あたしがゲーム婆ぁさんなのは、読者さんは知っているでしょうが、シュミレーションRPGがすき。

子供に付き合ってドラクエ初期から一緒に遊んでいたし、ネットゲーも七年も続けた経験もある。けれど携帯ゲームはどうにも好きになれない。

世の中は手軽で気楽を求めるけど、あれはせいぜいが電車の中とか、あるいは病院の時間待ちのヒマつぶしでしかないからね。第一課金がいやだし。

今や、面白いゲームを作るより、手っ取り早く金になる、ゲーマーを舐めてるような物ばかりが目に付く。初期の日本のゲームクオリティはどこへ行ったのか。

ゲーマーの端くれの端っこだけど、ゲームも映画と同ように、シナリオも世界観も重要だ。のめり込むようなゲームは少なくなってしまった。

はじめた当時は病の痛みを少しでも忘れるのが発端だった。ひどい痛みで眠れない孤独な夜に、チャットが随分と助けになったから。たまたまだけど、ネット社会の入り口としてゲームがあった。

長い時間、バーチャル世界とはいえ一緒に冒険を愉しみ、一緒に過ごす時間の中で人の優しい気持ちも感じた。

だから、アメーバのピグを楽しむ人を批判はしないけれど。チャットの楽しさは充分知ってるしアイテム集めもね。だけどプロフィールの写真位は、なんかあるだろうと思う。ごめんね。

だって業者ペタってみんなピグ顔なんだもん。知ってるピグ顔の人意外は黙って潰して、ひらがな
三文字のも。ついに面倒になってペタも消したの。

ブログをある程度、続けようとするならどんなプロフでもいいけど付ければいいのにと思う。

以前、「ネットの友達」って記事を読んで、リアルな友人を名乗る人より、9年付き合てるネットゲームの友人を信じられるって記事もあった。

すごく良く判る。
毎日のように、チャットで会話して、顔が見えない分率直になれる面もある。日々の仕事のことや、患ってる病の事も愚痴ったり相談したり出来るの。

経験的にも、その頃は寝たきりで身動きできなかった。一日ひどい痛みがあった。だけど、ネットゲームの中では元気に走り回る魔道士で、仲間の役に立てるのよね。

信頼も友情もそれがバーチャルであっても感じる事が大切なの。現実世界の友情や信頼だって幻想と云える側面さえあるんだから。

以前、米国ではエバークエストってネットゲームが盛んで、反対するエバ未亡人の会ってのもあった。それでソニーが訴えられたりもしたんだけど。

弊害として、大学を中退したり仕事をクビになったり、世話を頼んだ赤ん坊坊を死なせたりの非難が相次いだのね。

養護派は、寝たきりの老人に希望を与えたとか、遠く離れた家族が、週末一緒にゲームで冒険を共にして、共通の話題とチャットを愉しんだ例も上げられたの。

今の日本では、ゲームは目の敵で子供に悪い影響しか与えない、所詮、バーチャヤルの世界だろって批判が多い。

猟奇的殺人や無差別殺人に於いても、ゲームやDVDが見つかったとかね。ストーカー殺人の犯人がアニメ好きだったって、まともな報道とは思えぬ。

確かに、現実世界に於いて健全な交友関係や家庭を築いてる方には、理解されない世界だと思われてるのよね。

犯罪の理由にそれらを挙げることは、その本質から目をそらさせて、まるで原因がそこにあるかのようなごまかしに過ぎないのではないだろうか。

幸せな家族もいて、友人も多く、仕事も一応順調な方には多分に判らない事だと思うけど。だからあえて書くんだけど。

ゲームというバーチャル世界は、どんな毒を撒いてるのだろう。愉しむ事は無駄な時間で、それに救われる人はいないのか。

よく、リセットすれば何度でも挑戦できるとか、シューティングが子供の殺戮意識を麻痺させるとか云うじゃない。それってほんとなのかね。

脳医学とからも解明されているのかな。ゲーム脳とかって煽り記事と同じゃないのかね。ネット脳だってありそうだよね。

少なくともゲームを愉しみ、ゲームに嵌まる事が一度もなかった人が、血祭りに上げている側面はありそうでしょ。テレビでしたり顔でコメントしてるおっさんには判るわけが無いと思うよ。

勿論、弊害もあると思うし、それはむしろ使い方の問題で、何でも過ぎれば毒になるってことだよね。

幼児に睡眠学習とかいって、英語のCDをイヤホンで聞かせるのは教育で、ゲームは害なのか。確かに子供は外で遊べば健康的なんだろうけど。そういう環境が誰にもあるわけではないよね。

むしろ高齢者の方が、時間的余裕があるから楽しめるんじゃないだろうか。脳の活性化にはテレビよりマシと思うんだけど。意思が働くし。

以前にも高齢者向けのゲームを作ればいいのにってゲーム雑誌に投稿しょうと思ったけど。老人向けのゲーム教室とかやろうかね。

例えば、生活保護受けて病で何も出来ない人が、ゲームで楽しい気持ちを抱く事はありえないんだろうか。ゲーム機もPCも持っていたら保護打ち切りと威かされるよね。

そんな贅沢どうして出来るのかって。食べるだけで精一杯でしょうってね。
でも人って食べて出すだけが生きる全てなのか。愉しむのは贅沢だってことなのかね。人としてそれだけなのか大いに疑問があるんだけど、こんな意見はマイナーでおかしいと思われる。

人としての最低限の生活ってのがそうなら。悲しいよね。食費削ってのうさも晴らせない。ゲームも出来ない。自転車であちこち行く事も贅沢。

家の近くの保護の婆さんみたいに、毎日窓の外を眺めるだけが、保護受給者の人の最低の生き方なんだろうか。それを見ると何時も切ない気持ちになる。

四畳半のトタンアパートに住んで、窓の外の野良猫にささやかな夕食の残りを分かちあい。もつれる身体で洗濯をして、週一回のヘルパーさんに買い物を頼み、後はただただ食べ物を口に入れるような暮らしって人間的だろうか。

その人達は罪人なんだろうか。むしろ精一杯働いて子をなし、何かの事情でそういう境遇に陥った人では無いんだろうか。

勿論、あたしも来月賃料が払えるかと怯えながら、削れるのは食費だけで、どうにか食べていけるようにと願うばかりの人間で。幸いに息子がいて、彼もカツカツだけどネットやゲームを貸してくれるから、ブログも書いているんだけどね。まったく感謝するよね。

そういう、底辺を誰が想像し思い遣るのか。貧しい事の理不尽や、家族もいない孤独を想像するのは難しいかも知れない。

ましてや自己責任の世の中だからね。何でも自己責任なら政府なんていらねぇよ。とか言ってみる。

有識者とやらが発言するのに、一理はあっても何時もムカつくのは、彼らが世間の良識者づらすることなの。想像力の欠片も持っていなそうなおやじなのにね。サブカルチャーなんかゴミと思ってる。

勿論、人は全てを経験する事は出来ないし、経験が全てでもない。だからこそ本や映画やゲームで、登場人物に思い入れしたり、想像することで別の人の人生やいき方を感じられるし、追体験もするの。

ネットやゲームをする老人は多くないけれど。ゲームを入り口にネットに入る人もいて、そういう老人達が過去の体験や、社会につながりを持つ事も、ネット社会が広がったり成熟する一端になるように思うんだけど。

そう、今日は成熟する文化ってのを考えていたんだっけ。大人と云われてる人が成熟した人間とは言い切れない。

今の政治や大人を眺めてると、なんだか幼児的だなぁと思ったからなの、またそれは次に。



桃林の桃源郷