記憶を残す ー 阪神・淡路大震災 | ♪(*^ ・^)ノ⌒♡雪のブログ

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思い立ったが時に つらつらと書いてます。

今日は東日本大震災があった3.11やね


今年は元旦に 能登半島地震があって
正月早々 ほんまにびっくりして…
気の毒で…
心配で…






多くの親戚が 

能登半島のある石川県の隣 富山県内に居るので すぐに電話したりLINEしたりで

とにかく安否確認だけはして

皆無事だったので 少しは安心したけど



その後 ガイドの同期から

能登出身の同期は大丈夫かな?

故郷に帰ってるかもしれんから

能登にいるかもしれない

何か手がかりはと考えてたけど

Instagramで呼び掛けてみた

もしコレ見たらDM下さいと


でも 返信は無かったから

どうなのかは分からずのまま

無事でいてくれたらいいと

祈るだけしかでけへんかった





そんな事があって

阪神・淡路大震災があった1.17の

特集番組とか テレビで見たり

東日本大震災関連の番組とかも

色々やってる今日このごろに



前から 自分が体験した

阪神・淡路大震災を文字に残す事を

してみよかなぁと思ってた



報道されたりしてる様な事でなく

被災地の阪神・淡路地区住みでも無い

兵庫県のすぐ隣の辺りでも無い



当時 大阪市内南東にある

平野区住みだった私が体験した事



被災後 阪神電車が

青木駅まで開通したからと

ボランティア活動で

神戸市東灘区まで行った事で

被災地を見た事




そんな事を 書き残そうと思って

今書いてます



∞----------------------------‪𓏲𓎨ෆ ̖́-‬


1995年(平成7年)117 546





その頃あたしは まだ結婚してて
旦那が出勤前のお風呂に入ってて
朝食は食べへんから のんびりと
布団の中でテレビを見てた


布団の横には 洋服ダンスがあって
上に何か置いてた


布団の中で いつも朝に観てる6ch
おはよう天気です(番組名)を観てた







この地震て最初

突き上げる様な縦揺れがあって

あたしはとにかくびっくりして

旦那を呼んだけど返事はなく

この番組が砂嵐になって

音声だけで聞こえてきて…


今考えたら 

大阪タワーの上からの放送やし

めっちゃ揺れたんやろなぁと思う



その後 画面が映った時に

大阪タワーのすぐ下にあった(はず)

トヨタのガラス張りのショールームが

ガラスバキバキに割れて

全部下に落ちてたのを映してて

その光景を ものすごく覚えてる



この時 洋服ダンスの上から

置いてた何かが落ちてきたけど

あたしは 最初の下から突き上げる様な揺れでびっくりして 咄嗟に布団をかぶった

何かが落ちて当たったけど

痛っ!くらいで何もなかった



それより その後まだ揺れてて

揺れがおさまるのを待った

当時9階建ての団地の4階やったけど

上から見るとWの形をした棟は

たいして横揺れはなかった


後で 同じ辺りにある

箱型の4階建ての団地に住んでた

知り合いの家は同じ4階やけど 

サイドボードが倒れ中のお酒が落ちて

手前に高い洋酒

真ん中の列が普段飲み用のお酒

奥はあまり好きでないお酒を置いてて

もちろん手前から落ちて割れ

真ん中の列のも倒れて割れたり

落ちて割れたり

奥のだけが生き残ったけど

あんまり好きじゃないお酒で…

そこの家のお父さんが

物凄落胆してたらしい



美味しお気に入りのお酒を

サイドボードの手前に敷いてた布団にみんな吸われてしもてんから

そら 落ち込んだやろな

でも 命あっての物種やし

お酒が割れただけですんで 

良かったと思わなあかんよな〜と

そこの家の娘と話してた覚えがある



揺れがおさまってから

慌ててお風呂に居る旦那が大丈夫か

洗面所に行くと

丁度地震の時 シャンプーを流す為に

シャワーを当てながら目を瞑って下を向いていたみたいで地震の事が認識出来てない様だった


揺れで開いた引き戸を

あたしが開けたと思い

「何で開けるねん!」と怒っていた


地震で揺れたから 引き戸が開いたと

その場で説明しても

信じてもらえず…

お風呂からあがって

テレビの画面が砂嵐になってて

でも聞こえてくる音声で

地震があって 砂嵐になってると

わかったみたいやった




それくらい 

当時の家はたいして被害が無く

食卓テーブルの端に置いてた

灰皿が一つ落ち 

でも落ちた所にたまたま新聞があり

汚れる事もあまり無かった


居間とか諸々確認すると

あたしは4階やからと ベランダの施錠をする習慣がなかったから

引き戸という引き戸はみんな 

20cmほど開いていた


お風呂の入口の引き戸も

20cmほど開いてたし やっぱし地震の揺れで開いたんやと思った



旦那は とにかく会社へ行ってみると

車で出て行った

当時まだ携帯電話は持ってなくて


あたしはこの後

携帯電話必要や!と思う事になる




旦那が会社へ向かって出た

10分後くらいに 

テレビで地震の現状を目の当たりにした



高速道路がひっくり返ってる??!

なんやこれ?!

神戸 めちゃくちゃやん!!!!



朝7時過ぎに出たっ切り

旦那は音信不通で 

遅くまで帰って来れなかった


どうしてるのか

何かあったのか全く分からないまま

連絡を取れないのは

なかりしんどかった



地震のすぐ後は 

まだ固定回線の電話が生きてたから

九州にいるガイドの同期から電話で

無事は伝えれた


ただ その後電話回線がパンクしたのか

実家にも電話が繋がらず

どこにも電話が繋がらなかった



夕方くらいに 関東に居る従姉妹が

申込したら 必ず繋いでもらえる電話で架かってきた

富山県内にいる親戚とも相談して

代表で 申し込んで架けてきたと…

実家へはそれでも繋がらなかったと言っていた



実家の現状は 見た訳ではないけど

隣の区なので

そこまで被害はないはずと伝えた



従姉妹が 代表して架けてくれて

また 親戚一同に伝えておくと言ってた

この 母方の方からは

遠方の親戚から連絡があり

父方からは 同じ関西住みの親戚だけから連絡がきた




うちは 当時 

尼崎と豊中 

遠い親戚が 阿倍野区にいて

阿倍野は 遠い親戚なので

落ち着いてから 母が訪ねていたが

尼崎と豊中は

被害が酷いと予想されるので

心配していた




尼崎は 父方のおばさんと又従兄弟

高齢者のおばさんが心配だったが

家も大丈夫だった



酷かったのは豊中の家で

従姉妹家族は無事だったけど

大きな食器棚は倒れ

電気 ガス 水道は不通


数日後に 電気だけ開通したものの

スーパーには食料品が無く

お腹を満たせる物が無く

駄菓子しか無いと…

そっちは大丈夫か?と

連絡がついた4日後に そう話してた



あたしは 従姉妹に

こっちは 翌日から通常運転に戻ってて

スーパーでも 普通にタイムセールもしてると伝えると めっちゃびっくりしてたわ



ここまで 車で来れるかと聞くと

行ける!と返事だったので

必要な物を聞き

母と買い出しに行き

水 カセットコンロのボンベと

食料を しこたま買い込み

車のトランクがいっぱいになるほど

母は とにかく買うて持たせた



従姉妹は両親が 他界していたので

うちの親は 親代わりのつもりでいるし従姉妹も そう思ってくれてる様



その従姉妹は 看護師をしていて

当時 住友病院に務めていたが

とにかく行かないと!と

電車が止まっていたので 

徒歩で大阪市内の住友病院まで

来たらしいが 

来る途中 神崎川を渡る時に

渡る前と渡った後の

町の姿が 別世界だったと話してたな



川とかも地盤の境い目になってて

その影響で 揺れ方も左右されるのかもしれへんね



あの阪神高速道路のひっくり返ってる

神戸の長田区の燃えてる映像から

隣の大阪も それなりの被害やと

遠方の親戚は思ったみたいやけど

大阪でも 市内南東辺りは 

大した事なかった




被害は大した事なかったけど

地震のあった日の 前日深夜から

妹が 職場関係の人達と

神鍋高原やったか鉢伏やったかに

スキーに行くと 家を出ていた



当時はまだ 携帯電話は普及してなくて

アナログの携帯電話の音は

雑音が多くて聴き取り辛かったけど

妹は 周りの環境もあり携帯電話を持ってたけど 地震後は全く繋がらなかった


多分 回線がパンクしてたんやろな

今みたいに net回線も無いし

SNSも無いし

唯一 電話がすぐ連絡取れる手段やし

殺到してたんやろね




この阪神・淡路大震災の後

見たら既読のつくLINEが 

災害時の安否確認の為に出来たらしいし 

色々 活かされていったんやろね



携帯電話回線はパンクしてた様で

妹とは全く連絡がつかなかった


もう神鍋高原か鉢伏山へ向かってて

帰って来れなくなってると思ってたら

参加する人の家のある

大阪府吹田市で集合してたら

遅刻した人がいてて 

その人を皆で外で待ってる時に被災し

メンバーみんな携帯電話を持ってたので

連絡取り合って スキーは中止

帰宅する事にしたらしい







下道は恐ろしい程の渋滞で

吹田から大阪市内東部へ帰るのに

20時間くらいかかって帰ってきた


でも たまたま遅刻した人がいてて

ほんまに良かった













今調べたら 

1月23日に阪神電車が開通した

大阪梅田から神戸の青木駅までやけど…


あたしは友達に誘われ

ボランティアに参加する事にした



ティッシュペーパーやら

トイレットペーパーやら持って

まずは青木駅まで阪神電車で行って


降りてから2号線に出て

東灘区まで歩いた



まず 駅から出たら

車窓からも見えてたけど

ここいったいどこ?!ってなるくらい

町がめちゃくちゃで

降りてからは車内からは わからんかった焼け焦げた臭いが凄かった



まるで ドラマか映画の中の

戦後の焼け野原の様で…

空襲の後って こんなんやったんかと

しみじみ思いながら歩いた


家は木造が多いからか 木が燃えた臭い

でも その焼けた臭いの中に 何とも言えへん臭いも混じってて…

現実が怖すぎて 歩いてるメンバーの口数も少なくなった


歩いてたら 家の屋根が足元にあって

建物が潰れて 屋根が地面に直接乗ってて

そのすぐ側に

お花がお供えされてた


その時点で 涙が出てきて

簡単に手を合わせたけど

そんなん キリがない状態で

とにかく先を急ぐ事にした



2号線に出ると

信号が真っ暗になって動いてなくて

車とかバイクは 信号無しで走ってた

物資運搬のトラックとかバイクは かなりの数で 事故が無いのが不思議なくらいやった




2号線沿いの建物が崩れて

道幅1/3くらいまで崩れた建物が押し寄せてて 道の向こう側から こっちまでの間

車の通れるスペースが少なくなってた



↓↓↓こんな感じ

ーーーーーーーーー

崩れた建物の瓦礫

歩行者

バイク

崩れた建物の瓦礫

ーーーーーーーーー



上からは 切れた電線がぶら下がってて

危ないなと思ったわ






阪神・淡路大震災の阪神地域は

都市部なんもあって

車で避難は考えられず

町中の道は路地も多くて

路地は枯れ木で埋まってて

台車を使っての

支援物資の配布は無理だったから

毛布を何枚か持って

枯れ木の中 「毛布いりませんか〜」と

声をかけ続けると

家の中や 家の前に作られた犬小屋の大きい版の様な小屋から 

「大人3人で3枚!!」と人が飛びててきたり


スイミングプールのプール脇に

たくさんの方が避難されてて

お年寄りの方が 私らの使う様な下着無いかな?

おじいさんの履く温いパッチとか

赤ちゃんの靴下とか

それと 水はあるけど お茶とかあれば

ちょっとホッとするし

お茶っ葉あれば コンロもヤカンもあるし

入れれるねんけど…と


言われてみたら そーやんなと思った


寒いし 水ばっかりで

沸かしても白湯やし 味気ないやろし

おかずもあんまり無いしな…



公式な学校などの避難所には

問題なく物は届いてても

それ以外の所には 

ほとんど届かへんみたいやったし



都市部は人が多いから

みな避難所には行かれへんし


あえて防犯の為に

避難所に行かへん家族もいてて

家の中は全壊やし危ないから

自分の家の駐車場でキャンプして

家財を護った方も居てはった



その家は 家の下に

活断層が走ってるのがわかって

もう そこに建て直しもでけへんけど

家を何とかするまでは

仕事関係の物とかあるし

寝ずの番で 護ったらしく

何日もになると ほんま大変やったと思う



たまたま旦那の親戚に

そんな家があったから 聞いた話



神戸でも 西宮市ある東側は

道があかんくて

西の明石側の方はまだマシやったらしく

魚屋さんが軽トラで 販売に来てた


商魂たくましいって言うたら

それまでやけど

なんとか皆に食べてもらいたいって気持ちで もってきてはるんちゃうかと思う


おばちゃん達 めちゃ買うてはったもん




支援物資は

毛布

サランラップ

アルミホイル

紙皿・紙コップ

お茶っ葉

カセットコンロのボンベ

割り箸

台所用スポンジたわし

台所用洗剤

輪ゴム

セロテープ

ガムテープ

ロープ 

男性用冬用下着上下セット

年配女性向け下着

ナプキン

紙オムツ おしりふき

消毒ウエットティッシュ


他にもあったと思うけど

色々 ダンボールに入れて

台車で配ったり

手で持って配ったりしたよ





配ってる時に

なんか壁が続いてるなと思ったら

JR線の高架が落ちて

地面に壁の様に見えてたみたい


それがずっと続いてるから

その向こうの山手側には行かれへんくて

その高架橋の壁をぼう然と見てもうたわ


道がその壁で行き止まりになってて

手前の左手にある散髪屋さんの前に

LPレコードが散乱してた


散髪屋さんのおっちゃんが

集めたレコードなんかもなと

結構な枚数のLPレコードを踏まへん様に歩いた覚えがある





1月の寒い時期やったけど

川幅の狭い 小さい川で

洗濯してる人もいたり

その上流や下流でで 

食器洗ってる人もいたり

もう 何でもありやし

皆たくましいなと思ったな



まぁ 寒い地域やと

そんなんも寒すぎて無理やろけど…






支援物資の配布が終わって

どうやって帰ったか

あんまり覚えてないけど


旦那は仕事の関係で

復興支援関係の仕事が増えて

めちゃくちゃ忙しなってた



妹も バイクが小回りきいて

物運ぶのにいいとかで飛ぶように売れ

それを運ぶのが大変やと話してたな




今年 能登半島地震があって

ニュース見たりした時に

能登半島は 道が崩落で不通な所多く

復旧が進まへんと言ってたけど



こういうのって

その地域に合った 復旧の仕方をせな

復旧でけへんのやろし

そこんとこ理解して国が復旧に

手かさなあかんのちゃうかと思う



道のせいで 復旧進まへんのやったら

まず そこからやらな話進まんやろし



支援物資の事とか

何でも送り付けて 

使い物にならへんかったりとか…



そんなん

こんな災害の多い国やし

常設で仕分けしたりして

 支援物資蓄えとくとこ

そろそろ要るんちゃう?!


南海トラフも来る確率高いし

何でも 災害のあった自治体任せにしたらあかんのちゃう❓


今の日本やと 

自然災害が一番の緊急時やろし

そんな時こそ 国の力を発揮出来る時



今までの災害の経験や

蓄積されたデータを活かして

防災と災害時のスムーズな復旧

心のケアとかも

経験を駆使して対策して欲しいね




災害時には 個人の準備物なんて

あんまりアテにならんやろし



避難所とか

各避難所になりそうな場所に

災害時に利用できる携帯の充電器設備とか


女性ばかりとか

高齢者かかえる家族とかの

具体的な避難の仕方とか

色々考えて対策できる事って

まだまだあるよね



その他諸々

阪神・淡路大震災の記憶を残しとこ〜って思った次第です




長々すみません

読んで頂き ありがとうございました。




雪꧁ ❄️☃️❄️🫧⛄️🫧❄️☃️❄️꧂