朝起きたらお母さんが消えていた

朝起きたらお母さんが消えていた

なかなか普通と変わってるかもしれないけど

意外と平凡な自分の軌跡をここに残してみようと思いました。

気軽に読んでください。

自分の人生を考えた時、母親が突然消えた事が大きく影響したんじゃないかと思い起こします。

自分の半生とまではいきませんが、色々あった経験をまとめて、辛い境遇の方や、ちょっと不幸を嘆いている方などがあー、こーゆー人もいるんですねーって思ってくれたらそれでいいです。

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近所には同じような世代の子供がたくさんいて、外に出るとだいたい誰か遊び相手がいた。

 

遊ぶ内容といえば、やわらかいボールを使って近所の空き地で野球をする事が多かったが、

加熱した遊びといえばメンコである。

地元ではパッチと読んでいた。

ひっくり返されたり、下を通過されたりするとそのメンコを相手にとられてしまう。

ヘタな子供はどんどんメンコが減ってしまうので真剣勝負である。

手に血豆を作った事もあった。

 

また、ブルースリーに憧れて、ヌンチャクを兄ちゃん達は作って持って歩いていた。


まだその頃は遊ぶのにお金をあまりかけなくていい時代だった。

 

小遣いは、お買い物をするとお駄賃として10円や20円を貰っていて、

それで駄菓子を買って食べたりした。

 

当時は両親ともにいたのが、決して裕福な家ではなかったのでおやつに飢えていた。

 

また、近所におかしな子が一人いた。

ある日近所を歩いていると、きれいなおばさんが”ウチの子と遊んでちょうだい”と言ってきた。

僕は何も考えず承諾すると、そこに同じぐらいの歳の子がいた。

名前は”じゅん坊”

それ以外の名前は実は知らない。

純平なのか、淳一なのかわからない。

お母さんはじゅん坊とその子を言っていたので、僕もジュンボーと呼んでいた。

正直、おかしな子だった。

まるで話が通じないのである。

僕が笑わせようとしておかしな事をすると、ゲラゲラ笑ってウケてくれるが、

どうも会話が成り立たない。

それでも、遊べるのが子供の特権ではあるが、後でわかったのがジュンボーは

知恵遅れというか知能の発達が遅れている子だったようで、友達がいない子だった。

僕がジュンボーと時々遊んであげると、ジュンボーのお母さんは喜んでくれて

オレンジジュースやお菓子を出してくれる。

正直、それも嬉しくて遊んであげていた。

 

お菓子といえば、近所にいたコージ君の家は商店で、駄菓子なども売っていた。

コージ君はあまり友達がいなかったので、僕が一番の友達になってあげた。

コージ君と遊んでいるとコージ君のお母さんがお菓子を出してくれるので嬉しかったし、

オモチャもたくさんあった。

僕の毎月の楽しみは、「たのしい幼稚園」という雑誌の付録だった。

兄ちゃんはプラモデル作りに熱中していたのでその影響を受けて何かを作るのが好きだった。


近所にもう一件のなんとか商店があって、そこでアイスキャンディーを買って食べてるところを

コージ君のお母さんに見つかると怖かった。

買い食いをしているのがけしからん訳ではなく、他のお店で買い物をしたのが

かなり気に入らないらしい。

でも、コージ君の家には無いお菓子だってある訳で子供を責めるのは

何か間違っていないか?と思う。


コージ君は歳が2個下であるが、何故かかけっこでは勝てなかった。

歳下よりも足が遅いおかげで僕は足が遅いと思っていた。

コージ君が幼稚園に入園して、運動会があった時、コージ君のお母さんに

運動会に観に来るように頼まれた。

そこで、僕は観に行ってびっくりしてしまった。

実はコージ君はダントツで足が速かったのだ。

あまりにも足が速いので運動会の最後で表彰されていた。


同じ年齢の友達が家のそばに住んでいたけど、その子は5歳の頃引越ししてしまった。

その家はとにかく貧乏で、兄妹の多い一家だった記憶がある。

  

小学生になる頃、父親と兄ちゃんと映画を観に行った事がある。

その帰りに、父が買ってくれたものは、世界地図のジグソーパズルだった。

5大陸ごとにジグソーパズルがあったが、すべて合体させると畳2畳ぐらいの大きさになった。

他に遊ぶものがなかったから、やたらそれで遊んでいた。

実は小学校に上がる前に世界の著名な国の位置、形、国名は頭に入ってしまっていた。

  

同じ市内に母方の従兄弟がたくさんいた。

近所のおばさんの子供は3人兄妹、もう少し離れたところにヒデちゃん、別なところにヒロちゃん

とみんな僕より年上で、僕ら兄妹が一番従兄弟の中では小さかった。

 

コージ君をはじめ、ジュンボー、ショウジ君、

たくさんの仲間がその街にはいた。

ご飯を食べる時のルールは決まっていた。


僕の家では夜ご飯は夕方5時半と決まっていた。

まず、5時半を過ぎていても父さんが帰ってこないと食べない。

そして家族4人で食べる事。

正座すること。

テレビを消すこと。

ご飯をたべる時は食事に関係の無いおしゃべりをしない事。

ヒジをつかないこと。

それぞれに配膳されたおかずは必ず食べ切る事。

ご飯は一粒も残さない事。

食べてる最中は水を飲まない事。

当時、僕には好き嫌いがあった。

大根が嫌いだった。

大根の煮付けや大根おろしがある時は、本当に辛かった。

でも、食べ終わるまでは絶対にテーブルを離れても、正座を崩してもならないのだ。

 

僕が食べ終わらないとTVをつけてはいけない。

当時はご飯を早く食べて、トムとジェリーを観るのが好きだった。

でも、大根があるとどうしても観れない。

 

兄ちゃんはにんじんが苦手だった。そして水が無いとご飯が食べられなかった。

 

お互いに苦手分野があったのだが、兄ちゃんは何故か途中で許されており、

僕は絶対に許されなかった。


お母さんは、6時過ぎにはお化粧して出かけなければならなかった。

だから、僕が食べ終わらずグズグズしているとだんだんキレてくる。

キレられるのも子供心に正直辛い。

 

そんな戦いというか葛藤がたまにあった。


父さんはテーブルについててもまずご飯は食べようとしない。

いきなり酒を飲む。

カップ酒か焼酎。

夜8時過ぎには完全に出来上がる。

仕事はドカタなので、酒と疲れであっさり寝てしまう。


辛いのは、背中を踏めと言われ、踏むのだが、途中で父は寝るのだ。

終わっていいと言われないと終われないので延々と踏むハメになる。

たまにすごいイビキをそのままかくので、イビキが終わる合図であったりもする。

 

父が酔いつぶれている時、卵焼きが食べたくなって、兄ちゃんと一緒にフライパンに

卵を落とし卵焼きを作ってみたことがある。

でも、油を入れるなんて知らなくて、見事に卵がフライパンにこびり付いた。

それをスプーンでそぎ落としながら、一生懸命卵焼きを食べた事がある。

 

翌日お母さんに怒られたのは言うまでもない。

僕の場合、物心ついた頃は何歳かな。

3歳から4歳だと思う。

 

北海道のある市の2階建てアパートの1階にいるところから覚えている。

近所には同じ世代の子供が結構いて、適当に遊んだり、兄ちゃんの後ろばかり追っかけていた。

幼稚園や保育園には行っていない。

なぜかと言うと、お母さんは夜スナックで働いていたからだと思う。

近所の、コウちゃん(こーじ君)とショウちゃん(しょうじ君)や従兄弟のお兄ちゃん達や

遊んでくれる人はたくさんいた。

近所には空き地がたくさんあって、やわボールで野球をやったり、スパイごっこをして

秘密基地を作ってあそんだりしていた。

遠くにあるロケット公園(歩いて30分くらいかも)まで行くのも結構な冒険だった。

更にとおくに、湿原があってそこにメダカとか泳いでいたり、森にはクワガタがいたり、

トノサマバッタがいたり、当時は自然がたくさんあったと覚えている。

 

お母さんは優しくて、怒ったら怖い普通のお母さんだったと思う。

お父さんは無口だけど、お酒を飲んだら完全に飲まれるような人だった。

 

どちらにしても当時の自分には絶対的な存在だった。

兄ちゃんは身近な存在で、僕は弟でもあり子分だった。

口答えすると、叩かれて泣かされていた。