ペンデュラム鑑定をしてます
☆juel♡ 竹村佳容 です
台湾での生活は
日本での悲しい記憶を忘れさせてくれるくらい
新鮮なことばかりでした
他の企業の方たちも大勢来台していて
ママ友さんがたくさんできました
どの企業も奥さんは働いてはいけないことになっていたので
時間は十分にあり 皆さんで日々いろいろ楽しみました
異国の地で奥さんたちが寂しくならないよう
色んな講座や教室が開催されていました
そんな中で
スワロフスキーを使ったビーズアクセサリーの流行りを知り
そのアクセサリー製作の講座に出て興味を持ちました
この講座の参加が
パワーストーンとの出会いの始まりとなったんです
(パワーストーンとの出会いについてはまた書きますね)
五年予定の海外赴任
行く前は正直
台湾がどこにあるかも知らないくらいの認識レベルでした
「住めば都」とはよく言ったもので
台湾語の教室には週2~3回
通っていたのもあったけれど
半年くらいで日常は困らないくらいの会話ができ
市場に行っては買い物を楽しみ
ママ友さんたちとは中華料理や台湾料理を
格安ランチで楽しむ事ができる日々になっていました
ビーズ教室も
毎週開催してもらえるよう講師の方にお願いして
楽しんでいました
そんな時
二年たった頃に中国で流行りだしたSARS
台湾は大丈夫だと言われていたけれど
心配した会社からのお達しで家族は日本に強制帰国
旦那さんたちは仕事の引継ぎがあるからと
現地に残ることに
もしかしたら…があるかも
なんて言われて不安を抱えたまま帰国しました
帰国しても すぐ家に帰れるわけではなく
軟禁状態の隔離の生活が一か月ほど続きました
そんな中 三女の妊娠がわかり
その後出産
しばらくして赴任期間が短期間になった旦那さんも無事帰国
日本での家族の生活が再スタート
旦那さんは短期出張スタイルで
台湾や中国を行き来してました
台湾から帰国した頃
日本でもビーズアクセサリーが流行
製作講師の資格を取る講座も出てきたため
通信で受講し資格を取得しました
自宅で教室開いたり
子供の幼稚園バザーの出品作品を作ったり
自分の好きが仕事になるかも
と初めて淡い期待を抱きました
そんな時
長女を産んだ当時知り合ったママ友さんから
パワーストーン鑑定ができる人が県内にいると
お誘いを受けました
弟と父を亡くして 異国の台湾に行って
SARSで強制帰国で 旦那さんは現地滞在のまま
ずっと心配していてくれたママ友さん
これが
パワーストーン鑑定士Kさんとの出会いとなりました
自分のお店を持ちたいと語るKさんに心惹かれ
手伝いを始めてパワーストーンと本格的に関わることになり
その後県内に店舗を構えたK社長
更に拡大したいと私の地元への出店と店長話があがりました
しかし いろいろあって
K社長とは離れることになってしまいましたが
パワーストーンは私の手元に残りました
(K社長との事はまた書きますね)
帰国後旦那さんの海外赴任はもうないとなった事で
私の実家の跡取り問題が本格化
結局 私の実家を二世帯住宅に建て直して
姓は変えずに生活がスタートしました
でも
以前から感じていた旦那さんへの
私の中のギクシャクな感覚 違和感
決定づけたのは…旦那さんの不倫
台湾に行って 解消したいと思っていたけれど
状況は変わらず というよりも
海外生活も良し悪しで
私的には悪くなってしまったんですよね
台湾へは家族で行ったけど
旦那さんたちは
接待と称しての ゴルフ 飲み会 集まり
たまの休みは 日々の疲れで
寝てばかり
一度は素直に言葉にして
「子供たちの親」
としてやっていこうと話し合いもしました
けれどお互いに納得いかなくなりますよね 特に旦那さんは
男と女 ではなく 親としてなんて
修復されることはなく離婚を決意しました
強く望んだのは私です
(離婚についてはまた書きますね)
離婚を決意する少し前から
三女が保育園にあがった事もあり
本格的に私は社会復帰をしました
私の社会復帰も
旦那さん的には快く思っていなくて
それも離婚を決めた理由の一つ
「三女はまだ小さいのに
お前は遊ぶ金が欲しいだけじゃないのか」って
離婚してからは娘三人を育てるために
がむしゃらにとにかく働く日々を送ってきました
娘たちのために頑張れたのは
離婚のときに娘たちが私の味方になってくれたことが
救いになっていたからですね