ここのところ読売新聞には、「身体拘束」についての記事がいくつか見られる。2月上旬には「医療ルネサンス」で「「身体拘束 家族の声」を6回連載し、また、2月14日には「論点スペシャル」で「病院の身体拘束 どう減らす」として特集が組まれた。

 精神科病院における身体拘束は、ここ10年で2倍に増加している。

2017年にはニュージーランドのケリー・サベジさんの事件が起きた(神奈川県内の精神科病院に入院し10日間の身体拘束後亡くなった)。これを契機に(外圧に弱い日本のこと)、杏林大学の長谷川利夫氏が中心となって「精神科医療の身体拘束を考える会」が設立されている。

新聞によると、「精神科病院の身体拘束」とは、以下のようだ。

「精神保健福祉法に基づいて行われる。「自殺企図または自傷行為が著しく切迫」「多動または不穏が顕著」「放置すれば患者の生命まで危険が及ぶ恐れ」――のいずれかの場合に、やむを得ない処置として行う。」

 

 やむを得ない処置……が、10年で倍増?

 そもそも身体拘束は、憲法で保障された人身の自由を奪う行為に当たる。しかし、精神科では「人から自由を奪う」隔離・拘束が精神保健福祉法36条と37条において、精神保健指定医の資格を持つ精神科医が上記の条件を満たすと判断した場合、行えることになっている。

 拙著『青年はなぜ死んだのか』の登場人物である「陽さん」には身体拘束(そのほとんどが5点拘束といわれるもっとも厳しい拘束のやり方)の実施がなんと3か月にも及んでいる。これは、上記長谷川教授が調査した、日本の精神科病院で行われる身体拘束期間のほぼ平均日数に等しい。

ちなみに国連、WHOの精神保健ケアでは、原則として、身体拘束は4時間を上限としているのである。4時間と3カ月では、桁が違う。しかし、信じがたいことだが、現実には年単位で身体拘束を行う病院もあるようだ。

身体拘束は、いわゆるエコノミー症候群を引き起こし、その血栓が移動して肺動脈を塞ぐ肺塞栓をおこすリスクが高まる。長谷川教授の調べでは、2013年以降、身体拘束が原因で死亡したとみられる人は10人にのぼるという。

 

 なぜ身体拘束をするのか?

患者が暴れるから。暴力的だから。不穏だから。

 医療者側からすればさまざまな理由が、いくらでも挙げられるだろう。しかし、拘束するそのときに「暴れている患者」はほとんどいない(なぜなら暴れていたら現実的に拘束などできない)。

 今回、本を書くにあたってカルテを読み、また228日の書店で行われる「トークイベント」で、私と対談をしてくれることになった「深山さん」という女性のカルテも読まさせていただいた。

 前述のように「陽さん」も、また「深山さん」も身体拘束をされている。そして、どちらのケースでもカルテから浮かび上がってくる共通項は、まず、何らかの「出来事」があり、それによって「興奮」し(この興奮は人間ならごく当たり前の「反応」としか思えない)、その一つの「興奮」で、それ以降「身体拘束」が延々と続けられるという状況なのだ。

 たった一度の「出来事」で、身体拘束が何十日(それ以上)と続いていく。

 食事のときだけ「上肢解放」となることもあるが、食事が終われば、再び拘束。患者は「おとなしく」拘束されているのである。いったい何のための拘束なのかわからないが、カルテには「自傷他害の恐れあり、拘束継続」という精神保健指定医と言われる医師のサインとともに判で押したような文言が記されている。そのことのみによって、医療者としては患者を縛るという憲法違反も堂々と行えるという精神保健福祉法の定め。

 

「深山さん」の場合、拘束は憲法違反であること(彼女は看護師でもあった)を訴え続け、そのことで「不穏」とされ、拘束が続き、訴えれば訴えるほどに、拘束のみならず、点滴でドルミカムという超即効性のあるベンゾジアゼピン系の薬物を流し込まれるという「処置」を受けた。

 また「不穏」であるための拘束という図式も、その「不穏」の原因が薬剤性のことも多い(とくの陽さんの場合、その可能性が大きい)。薬の副作用を無視した精神医療の根本問題さえ、すべて患者のせい(病気のせい)にされて、さらなる締め付け(拘束、さらなる薬物使用)へとつながっていく。精神科病院の「治療」はもはや治療でもなんでもなく、病院は患者を人間ととらえていない人権意識の低い場へと堕している。

「患者の尊厳」など絵に描いた餅。人権を守るという公衆電話の前のビラも、形骸化している。

 そうした病院の「治療」「環境」で患者がどれほどのトラウマを抱えることになるか、それがどれほど「魂」を殺してしまうことになるか、これまで数名の方からの話を聞き、そのたびごとに私は言葉を失った。

 

 

『青年はなぜ死んだのか』の「どちらが狂気か」の一部を引用します。

「精神科での死亡退院は、入院患者31万人中、年間2万2000人強と言われている(2016630調査から概算)。1日にしたら60人以上である。さらに1日に隔離されている人が1万411人、拘束されている人が1万932人(2016630調査)。

 8・3秒に一人が鍵のかかる個室に閉じ込められ、7・9秒に一人が縛り付けられているのだ。そして、精神病院の片隅で、人知れず、不審な死を遂げる人が、1日60人……。」

 

 ところでこの「630調査」に関して「日本精神科病院協会(山崎學会長)」はもう協力しないと言い出している(患者の個人情報保護のためというわけのわからない理由で)。

 精神医療の閉鎖性がこのことでさらに強まり、そのことで一般の人々の偏見が助長されるという悪循環。

 精神の混乱は誰にも起こりうることであり、精神科病院は決して他人事ではないはずなのだ。本に登場する「陽さん」も、さらに多剤大量処方の犠牲になった「直樹さん」もごくごく普通の大学生だった。

 また、今回対談することになった「深山さん」もごくごく普通の主婦、看護師だったのだ。

 それが、ふとしたきっかけで精神医療と関わることになり、結果的に暴行の末亡くなったり、自死に追い詰められたり、強制入院の犠牲になったり、想像を絶する経験をすることになってしまった。

 今回の本もそうだが、トークイベントでも、精神医療に関わる人、その犠牲になる人は、決して「特別な人」ではなく、ごく普通の、市井の人たちであることを強く訴えたいと思っている。そういう人達が精神医療にからめとられていく過程を描き出すことで、少しでも世間の偏見が薄まれば、自分の問題として考える契機になればと願っている。

 現在、これだけ向精神薬が薄く広く世間に広まっている状況である。それはつまり、これまで述べてきたような「医療」にすでに一歩足を踏み入れているのかもしれない。

 ちなみに、今回の読売新聞の記事では、身体拘束を減らすやり方として「診療報酬で拘束最小化を促す」ということだ。

 多剤大量処方も結局は「減算」という方法がとられ、拘束も同様である。つまり、精神医療そのものに「自浄能力」はないということの証明である。

 

 

トークイベント

日時 : 2月28日(木)午後7時~午後8時30分

場所 : 書泉グランデ7階   東京都千代田区神田神保町1-3-2

詳細は以下のホームページからお願いします。

事前申し込みが必要です。

「お問合せ」フォームから事前申し込みができるようです。

 https://www.shosen.co.jp/event/93085/