いまさらなのですが、昨年1212日に放送された、石郷岡病院事件・NHK(ハートネットTV(Eテレ))の「ある青年の死」について考えました。

 このブログにもいくつかコメントが入っていますが、私も同様の意見です。

 まず、NHK がこの問題にこのように「真摯に」取り組み、30分という番組を作られたことは、たいへん有難い(文字通り、「有ることが難い」という意味)と感じます。

 まだ係争中の事件でもあり、報道には困難が伴いますが、それでもあえて番組を作り世間に問うたことは、一般視聴者に日常ほとんど触れることのない精神医療の問題を知らせる意味においても、「有難い」ことでした。

 ただ、高木俊介医師が登場した(最初の場面)あたりから、完全に番組の流れは変わりました。

「陽さん」に処方されていた薬のリスト……ナレーションでは入院中17種類の薬が処方され、「医師の処方は正しかったのか?」と問うています。

カルテを持参し、高木医師に見せながら「薬の量、種類は悪くないですか?」と訊ねて、以下が、高木医師の回答です。

 

「悪くないですね。使っている薬自体は決して多くないし、選択も悪くない。残念ながら今の抗精神病薬というのは常識的な量でも時としてこのような副作用(陽さんに出たジストニア)が出ることがある。どんなに注意してても。だけど、抗精神病薬をやめてみるという選択肢はなかったように思う。ちょっとそこが残念かもしれません。もしかしたら、出た副作用をさらに悪化させていったということもあるかもしれない」

17種類が、「多くない」「常識的な量」なのでしょうか。

そして、ジストニアが出たのは、患者の体質のせい?

医師同士、批判するのがいかに難しいかということでしょうか。

 

 このあたりから、番組はどんどん期待とは別の方向に流れていきました。

 精神科の看護師を集めて話を聞いたこと。人手不足の現場という現実(精神科特例のことが言いたかったのでしょうか)。ある看護師からは「(患者さんの世話を)さっさと終わらせたいというのはある」という「証言」も出ました。

しかし、個別の事例をこういうやり方で一般化すると、物事の本質を見えづらくしてしまいます。なら、あの事件も「仕方のないこと」だったのかと。

 そして、最後に語り手の言葉。

「入院患者への暴力は許されるものではありません。その一方、死に至るまでの道を考えると、家族や病院にすべての責任を押し付けている社会のかたちも見えてきました」

というナレーションを受けるように再び登場した高木俊介医師。

「親御さんとして精いっぱい心配して、少しでもいい医療を受けさせようとした。だとしたら、今の仕組みの中では最善のことをやっている。でも、そんな危うい最善しかなかった。今のこの現状の中では、一番できるまっとうなことをしたんだろうと思います。だけど、結果は最悪になった。誰も悪くないけども、みなが責任ある社会だということかもしれないな」

 

 正直、あんぐり開いた口が塞がるまで時間がかかりました。

「誰も悪くない」……。なら、裁判など成立しないということでしょうか。

 しかも、番組の最後に、お父様の涙とともに、それをもってきたこと。

 どこかきれいごとで済ませてしまったという印象は拭えません。

 

 私は精神医療の問題で「向精神薬」が絡まない問題はない、と考えています。実際、「病気」とされる症状も、背後には、薬が大きく影響している。そのあたりの考察を抜きにして、「精神障害者ありき」の議論は、非常に表面的で、ある意味画一的です(というのは、昔からそういう議論はそれなりにされてきましたから)。

 もちろん、投薬を受ける前の症状はあります。すべてがすべて薬のせいと言っているわけではありません。ただ、ひとたび薬物治療が始まれば、それがどういう方向に向かうのか、まして誤診の結果、お門違いの投薬をされて、さらに状態が悪くなれば「難治性」とされ、さらなる投薬、あるいは電気ショックという「治療」が行われる。それが精神医療の問題の根本をなしているのです。そのときの状態は、最初の症状など吹っ飛ぶほど重篤になっています。それが「陽さん」ではなかったのか?

 しかし、番組はそういう方向には行きませんでした。それどころか、権威である高木医師の言葉に引っ張られるように、おかしな結論にたどり着いてしまった……。

 

 陽さんの事例は私もブログで書かせていただいていますので、経過は知っています。

 当初投与されたSSRIという抗うつ薬(これに関しては、薬害オンブズパースンの弁護士が、攻撃性について言及していました)。問題はそこから始まったのではないでしょうか。

 あとの成り行きは薬から薬の影響にしか思えないのです。もちろん、その時々の症状にはその人固有の「性格」なり「傾向」が関係はしています。しかし、薬がそうしたものをさらに誇張し、背中を押し、取り返しのつかないものにしていってしまう。これは向精神薬の特徴です。

 その状態を見て、人は「精神障害者」という烙印を押します。確かに、症状は精神障害者のそれですから、誰も否定はできません。でも、最初からそうだったのか? 薬物療法は、病気の進行に追いつけなかったということなのでしょうか?

私は、そうは思いません。

社会の責任?

確かに、そうです。

しかし、この問題を語った結論が、誰も悪くない、社会全体の責任として、これで視聴者に何が伝わったのでしょうか。

私には、非常に危うい印象が残りました。

(まあ、NHKという大看板では、これ以上は無理なのかもしれませんが。)

 

 もう一つ、2014年に出版された本ですが『ルポ刑期なき収容 医療観察法という社会防衛体制』(浅野詠子著 現代書館)というのがあり、最近また読み返してみました。

 タイトルにもあるように「医療観察法」が成立するまでの経緯を追いながら、精神医療の問題に迫ろうという、たいへん骨太のルポルタージュです。

 情報公開請求によって手に入れた公文書から当時の関係者の証言を多数集め、行政、法律家、精神医療関係者が、「医療観察法」や「精神障害者」についていかに議論をしてきたか。

 要するに「医療観察法」という時代遅れの法律の運用状況を通じて、日本の精神医療の闇を暴こうというものです。

 しかし、残念なことに、ここでもやはり精神医療が抱える根本問題の「薬物療法」、「向精神薬の仕業」についての視点はあまり(皆無ではありませんが)ないのです。

 そしてやはり「精神障害者ありき」から考察は始まっています。

 

 そりゃそうです。

 精神科医、精神保健福祉の関係者、世の中の多くが「精神障害者ありき」でこの問題をとらえているのですから、取材をすればそういう話しか出てこないのは当然です。違う意見を言えば、「独特な持論」ということになります。(著者は松山の笠陽一郎医師も取材され、このような言葉で笠医師の主張を表現しています)。

 

 本の中にはこういうことも書かれています。

「(この)看護師は以前、こう語っていた。

「抗うつ剤の大量投与とか睡眠薬の大量服用によって、患者さんに被害妄想が起こり、攻撃的になったケースもありますよ。ひとくちに精神障害者の暴力といっても、不適切な医療がつくりだしたものも相当あると思われます」

 医原性の精神病というわけだ。

 被告席にすわるべきは、だれなのか。」

 

 ここもう少し深堀りしてほしかった。

 

 また、「精神科の無医村がある」という章では、

「警察の留置施設や代用監獄、拘置所、刑務所などの閉ざされた空間もそう(精神科の無医村という意味)である。」

 と書いています。

 この視点はたいへん素晴らしいと思いますが、「精神科の無医村」という表現からもわかるように、留置所や刑務所では精神科の「治療」が受けられないリスクを言いたいわけです。

 

 警察がらみの話でいれば、こんな話があります。

 知人の息子さんが精神科の薬を飲みながらちょっとした事件を起こし、取り調べを受け留置所に留め置かれました。しばらくの間は、投薬はなし、つまり「一気断薬」というわけです。

そういう状況で、当事者がどうなっていくか、向精神薬がどういうものであるかを知っている方ならおおよその想像はつくと思います。

つまり、そこからさらに問題は複雑化し、当事者にとっては不利になっていくのです。刑法における処遇のなかで、薬のことは二の次にされ(これは「治療がないリスク」というより、断薬から来る退薬症状というものへの無知です)、まるで蟻地獄にはまってしまったかのように、悪い方へ悪い方へと流されていき、結果「医療観察法」のお世話になることもあるわけです。

精神医療の問題で「薬」を度外視して語れることは、ほとんどない(皆無とは言いませんが)。

 

 マスコミと精神医療の関係は、取材者がどの立ち位置でこの問題を見ているかで、ずいぶん違ったものになると感じました。当事者側から見ているか、当事者側から見ているつもりでも精神医療のからくりがわからなければ、取材対象者の言葉に引っ張られます。幻聴があれば統合失調症と信じて疑わない医師を取材すれば、「精神障害者のおかれた状況をいかに改善していくか」という視点で活動している人を取材すれば、良くも悪くも「精神障害者ありき」の視点になっていくでしょう。ごくごく一般的な、精神医療関係者の多くがもっている立場でみれば、結局、医原性の問題は、それこそ「特別な例」「たまたま」「個人の問題」ということなり、その視点は消えてしまうでしょう。

 

 自戒を込めて……。

 

 今年は戌年。プロフィールを見ていただければわかりますが、年女。いい歳になりました。

 総仕上げの年にしようと考えています。