その後、市川さんから伝えてもらった離脱症状をお伝えします。
「アモキサン50mg×3を断薬して6日目。前日の5日目の昼までが離脱症状のピークでした。死がすぐ隣に迫っているかのような強い恐怖感が襲ってきて、怖くて目を閉じることもできず、眠れずひたすら起きていました。
これから、ベンゾ系を含めあと4種類、減薬、断薬していけるのかと不覚にも泣いてしまいました。
離脱症状によって聴覚過敏となり、少しの物音や、外の車の音、鳥のさえずりまで恐怖する状態です。
しかし昨日の夜、イヤホンをして外部の音をなるべく聞かないようにし、自分の心音を集中して聴いていると、少し落ち着き、久しぶりの睡眠を取ることができました。
辛いのをただ我慢しているだけではなく、これからも少しの工夫で乗り切れるかもしれないと、少し希望を持てました。
6日目も辛いのですが、睡眠が取れたことが大きく、日中は辛いながらも活動できています。厳しい戦いとなりますが、くじけず戦っていこうと決意を新たにしました。」
自分自身を振り返る
市川さんはカウンセリングを受けた際、「10年史」というものを作ったことがあるといいます。それによって振り返った自分の過去10年を次のようにまとめてくれました。
・うつの直接の原因について
私が精神症状を発症したのは20歳の時でした。当時付き合っていた彼女にひどく振られ、
頸の痛み、不眠、幻覚症状、大量の発汗といった症状です。
目を閉じるとこのまま死んでしまうのではないかという恐怖に駆られ、パニックになり一睡も出来ず、食事も喉を通らない有様でした。
当時はうつ病やパニック障害といった言葉がメジャーではなく(私が無知だっただけかもしれません)、心療内科の存在も知らず、精神科と言えばとても恐ろしいイメージがあったため、ただ気力と体力のみで日々を過ごしておりました。(当時、身長180cmで体重56キロ程度でした。今とは20キロも違う)
そこから症状は長引き、長い間引きずったままでした。誰にも相談せず、これといった治療もせず、合わない東京で一人暮らしを続けたことも良くなかったのかもしれません。
・学生時代
思春期にさしかかる中学生頃から、周囲の目を過敏に気にするようになっていきました。
当時、両親の喧嘩が絶えず、家にいるのが苦痛でたまりませんでした。大きな声や音に怯え、苛立ち、ストレスは相当なものでした。
その状況から、すれ違う人が自分を見て笑っているだとか、自分は他の人より劣っている、恵まれていない等、半ば被害妄想に近いものがありました。
友人や他人はとても活き活きと楽しく人生を満喫しているのに、自分はどうしてこうもくよくよと考えてしまうのか、どうして楽しく生きられないのか、自分は満たされていないと強く思うようになりました。人と対立することを避け、本当に言いたいことは内に秘めました。これは社会人になっても根深く残る感情でした。
・会社の対応について
産業医のいる会社でしたので、休職後は何度か産業医面談がありました。そこで、現在服用している薬は何か、何時に起きて何時に寝ているか、起きている時間は何をしているか、
仕事に対して思うことや、現在の悩みは何かなど色々と質問され、その後会社の上司を含め、業務量を減らすだとか、配置転換をするだとかを決められました。
業務量は格段に減りました。一日中ネットサーフィンをして終わる日もざらにありました。仕事の負荷は無くなっていたと思います。
しかし、結局は3回も復職、休職を繰り返し、最終的に会社としてはお手上げ状態でした。私も、薬を飲んで、仕事の負荷が無くなったのになぜ調子が上向かないのかと不思議でなりませんでした。自分がクズだから治らないのだと言い聞かせるしかありませんでした。
・休職中の生活について
基本、クリニックに行く日以外は全く電車に乗りませんでした。人に会う、話すのが煩わしく、宅配便の荷物受取りさえ拒否していました。
酒量が多く、妻からもアルコールと向精神薬、睡眠薬の併用について咎められていましたが、一向に良くならない状態に、かなりやけになっており、聞く耳を持っていませんでした。このまま死んでもいいと思いながらの生活でした。
何度か、異常行動があったそうです。私は全く記憶が無いのですが、真夜中、私がベッドを抜け出しベランダにたたずんでいたり、休職中にもかかわらず、うずくまりながら「明日会社に休むって連絡しなくちゃ…」と繰り返していたり、突然ベッドから飛び起きて、壁に向かって申し訳ないと謝ったりしていたそうです。
アルコールを摂取しすぎて、急性アルコール中毒となり、病院へ救急搬送されたこともありました。その際は錯乱状態で、看護師や医師に殴りかかっていたそうです。
妻が離婚を決意するのも納得できます。本当に今でも申し訳なく思っています。
・うつのカミングアウトの時期
2009年6月に薬を飲み始めてから、結婚後2015年8月まで、会社の一部の人間と妻以外の誰にも、うつと診断され、向精神薬や睡眠薬を服用していることを伝えていませんでした。軽蔑されると考えていたからです。
当然伝えていないため、周りは普通の人として接してきます。私もそのように振舞うために、心身の不調をひた隠し、明るく振舞っては、後日、体調をさらに悪化させるという状態でした。特に、結婚後、両家の親から「子供はいつ?」と聞かれるのが苦痛でした。
ご存じの通り、向精神薬や抗不安薬には、性欲の低下、射精障害、勃起障害といった副作用があります。私もそのようになってしまい、薬を飲み始めてから一度も妻とそういう行為をしたことがありませんでした。(これは、結局離婚までの四年間続きました。)
妻も子供を欲しがっていましたが、私がそのような状態のため、諦めている節もありました。
隠し続けていることがプレッシャーとなり、症状を悪化させているかもと思い、とうとう自分の親、友人にカミングアウトしました。すると、皆優しく話を聞いてくれて、応援すると言ってくれました。大変嬉しかったのを覚えています。
義両親にはその時、伝えませんでした。理解してくれないだろうと思ったからです。
私は、義両親含め妻の親戚に、結婚を反対されていました。すぐにどこか体調が悪いというあんな男はダメだ、信用できないと。
それを二年がかりで説得し、結婚を認めてもらった経緯があるのです。今更「うつで、薬を飲んでいて、会社を休職している」とは言えませんでした。
(結局離婚する際、義父と電話で話したのですが、予想通り、状況を全く理解してもらえませんでした。)
・現在の環境について
現在、実家にて、両親、姉、私の4人暮らしをしております。
父は小言が多いながらも、色々と世話を焼いてくれ、母は私の話を良く聞いてくれます。姉も一定の理解を示し、普段通りに接してくれています。
地元には、小学校、中学校からの幼馴染が大勢おり、その誰もが病気の自分を受け入れてくれ、優しく、温かいです。素晴らしい環境にいると思います。
通院中のクリニックは、まだまだ未知ではありますが、初診後、電話で今後の減薬について相談したところ、「減薬、断薬は数か月単位もしくはそれ以上となる大変重要なことであるから、電話ではなく、再度診察に来てください。」とのことでしたので、今のところは相談しながら減薬、断薬を進めていこうと思っています。
2016年3月28日の減薬開始時から、アルコール摂取も止めています。どうせなら一緒に止めてしまおうという気持ちと、離脱症状の中飲酒した場合、自分がどうなってしまうのか怖いという気持ちからです。楽しく飲める日が来るようにと願っていますが、いつになるかは判りません。」
以上、市川さんからのメールを紹介しました。
7年前のクリニックの薬の処方は、言ってみれば、当時うつと診断された人の多くがたどった、ある意味悪しき「スタンダード」です。
初診でドグマチール、デパス、マイスリー(さらに2種類の薬)。
正直、最初からこういう薬を処方されてしまっては、あとは薬剤性の問題を抱えることになるのはむしろ当然といえます。
また、向精神薬とアルコールの併用はダメですが、そのことを医師がきちんと説明していないと思われます。マイスリーはそれだけで「朦朧状態」「夢遊病状態」になる睡眠薬で、そこにアルコールが加われば、たいへんな事態に陥ります。
結局、薬とアルコールの影響はあまりに大きいものでした。
やり直すため、地元に戻り、今は家族とともに暮らし、減薬を進めている市川さん。
自分自身を振り返る文章からは、こうした体験を乗り越え、やり直そうという市川さんの冷静な思いと不安が感じられます。淡々と書かれていますが、その陰にはどれほどの思いがあることでしょう。
離脱症状は個人差が大きいので何とも言えませんが、アモキサン断薬後の離脱症状が、辛いながらも期間としてはわりに短期のうちに落ち着き、よかったと思います。
それにしても、いつも思うことですが、精神医療にかかわることで支払うことになる代償は、その人が「生き方」や「考え方」を変えるきっかけとしては、あまりに大きいということです。数年間、数十年間……健康を害し、人間関係を壊し……。人生を「破壊」されても、それでも人は生き続けなければなりません。せめて医師は、自分がその片棒を担いでしまう立場にいることを自覚すべきです。治せないなら、せめて「傷つけ」てはならないのです。
市川さんの減薬は今後も続きます。残る薬の減薬は慎重に、激越な離脱症状が長引かないことを祈っています。