2013年の夏の終わり、精神的な不調に陥り病院に入院、退院後、自己判断でエビリファイの減・断薬をされた女性(仮に大田さん、43歳)から連絡をいただきました。

断薬後、体調がよくなり、気分が上向いてきたのを、もしや「病気の再発?(陽性症状復活?)」と不安に思い、ネットでいろいろ調べているときに、私のブログに出会ったといいます。そして――、

「かこさんブログのおかげで、自分以外の薬の副作用体験や離脱症状体験を知り、とても勉強になりました。また、私の不安を取り除いていただきました。私は、自分を客観的に見つめることを心掛けていこうと思います。そう思うのも、かこさんブログのおかげです」

 ということでした。

その後、その頃は、離脱症状緩和法についての情報を募っているときでもあったので、大田さんなりの緩和法も伝えていただきました。大田さんの体験談とともに、お伝えしたいと思います。

まずは発病までのことを書いた大田さんからのメールです。


多忙、疲労困憊の末

「入院直前、私は、当時、41歳の主婦で、アルバイトでスポーツのインストラクターを数ヶ所で週3~4日、他PTAや絵本の読み聞かせ、映画やドラマのエキストラ(私の住む町ではよく映画やドラマの撮影があり、私はすっかり「エキ病」(エキストラ活動にのめりこむこと)にかかっていました。もちろん、自分もいつか役者になりたいという若い頃からの夢もありました)などのボランティア活動をし、多忙な生活を送っていました。

家族は――金曜日の夜帰宅し、月曜日朝出勤する単身赴任の主人と、当時中学3年と小学2年の娘たちとの4人家族で、現在は高2と小4になりました。

発病直前、私は、自分のことを理解してくれる人は、そばには誰もいないという絶望の中にありました。

 自分でも、どうして、家族や自分を犠牲にしてまで、お金にもならないこと(ボランテイア活動)にばかりに情熱を燃やし、どんどんハイになり、挙句、もう限界というところまでやってきてしまったのかわからなくなってきていました。

 発病した2013年の暑い夏の日々……私はPTA役員や、下の子どもが所属する合唱団の保護者会長としての活動、スポーツのインストラクター、ある映画のセット作りのボランティアなどで、ともかく忙しく、睡眠不足で、疲労がたまっていました。

 旦那様は元々、「やりたいことはやっていいよ」といってくれる人ですし、協力を求めれば、なんだかんだいっても手伝ってくれていました。

 それでも、発病直前に、いやきっともっと前から、「ペースを落とせ」というようなことをアドバイスしてくれていたのかもしれませんが、私はもう聞く耳をもっていませんでしたし、入ってもきませんでした。

 関わっていたすべてが大切で、すべてにおいて完璧を求め、全く手を抜きたくないので、常にフル稼働を目指し、どんどんハイな状態になっていきました。寝なくても、食べなくても、全然平気でしたし、やれば何でもできる気になっていました。


現実と妄想が入り乱れ……入院

 しかし、破綻はすぐにやってきました。

 多忙な現実の生活を送りながら、頭の中では、「地球が全面戦争に突入し、核弾頭が落とされ、人類は滅亡する事態」となってしまいました。

「急げ急げ、地球から人類を1人でも多く救うのだ」

 人類が地球を出て他の惑星に移住し、1人でも多く生き延びるための重大な任務のうち、ラスト3人を、私→いもとあやこさん→サラ・ブライトマンさん(私は彼女の歌が大好きなのです)の順番で担っていて、そのこと、つまり、「地球以外でも生き続けられる能力を持つように進化すること」は、実は、自分も含め、周りの人々すべてが、歴史上、様々な人物に生まれ変わりながら脈々と培ってきていた……という設定になっていました。

 例えば、戦国時代において、当時PTAで一緒だったKさんが、とある武家の奥方付きの侍女で、私はその時代の流れを空から見ていたり、など、他の時代、他国での出来事を走馬灯のように、かつリアルに眺めているのです。

 また、渥美清さん演じる寅さんがでてきて、私に、あの口調で「平和の尊さ」について語ってくれたり……。

 そうして、私は、この世にこのような時代に、役割をもって、「大田雅恵」として生まれた、ということになっていました。

 ですから、私は、実際に、友人たちに「大変なことになっている」旨を説明してまわったりしました。

 メールで持論を送信し、家では、旦那様に必死になって力説し、「何故わかってくれないのか」と暴れまわりました。

 実家に電話し、母親に対して「自身を顧みないで、いつも自分は正しいと思ってるなんてどうかしている」と怒りをぶつけ、挙句に携帯を床に叩きつけて壊してしまいました。

 子どもたちに対しては――「子どもは地球の将来を担う宝である」という意識が働いていたようです。旦那様に押さえつけられた私を、下の娘が、不安そうな目でみつめた時、とっさに「ママが悪かった」といって、おとなしくしたのを覚えています。

 よくは覚えていませんが、以上のような混乱した状態が数日続いたようです。

 困り果てた旦那様は、ご近所の看護師さんに相談し、病院を探し、ついに、私を精神病院に連れていきました。

 私の頭の中では、この時、とうとう任務がスタートし、宇宙船発射センターに向かって出発したことになっていました。

 現実と妄想が混乱し、完全におかしくなってしまっていたのでした。

 病院(私の頭の中では宇宙船発射センター)に着くと、白衣に身を包んだ男性の看護師さんたち数人で、出迎えてくれました。うち1人は、知人のYさん(事実2人は似ている)で、

「ここの職員だったのですか」と訊ねました。

「そうです」という当たり前な返答に、内心ものすごく驚きながら、「彼も任務なんだ」と気付かないふりをしました。

 私は、彼らに付き添われ、エレベーターで階を上がり、隔離室(宇宙船発射に伴う特別室)に入りました。

 中央に拘束帯付きのベッドがあり、横になるように指示されました。

 私は、静かに横たわりました。なにしろ、任務ですから。

 そして、点滴注射が始まりました。体中に無数の針をさされたような感覚のあと、気を失ったようです。

 どのくらいの間、気を失っていたのでしょうか?

 正気を取り戻したのは、開放病棟に移ったあとの食事中でした。私は、なんと、椅子の上に正座して食事をしていました。

入院直後、腕に針を刺されるまでの現実と妄想が入り混じった記憶はあるのですが、それからこの開放病棟での食事までの記憶は全くありません。

 そして、正気になると、自分の身の上に起きたことが、瞬時に理解され、「なんてことだ」と思いました。」


薬の副作用

 大田さんの入院期間は1ヶ月半だった。そして、退院時に渡された会計の詳細から、入院中に投与された薬の詳細が初めてわかった。

頭の中が混乱して、意識と記憶が定かではない入院当初は――

点滴注射→ビーフリード(ビタミン等の混合輸液)、リントン(抗精神病薬)、生理食塩水、タナベ(=トリアゾラム・ベンゾ系睡眠薬)。

投薬→エビリファイ(抗精神病薬)、ベゲタミン(3剤混合の睡眠薬)、デパケン(スタビライザー)、ヨシトミ(=リスペリドン・抗精神病薬)、アメル(=フルニトラゼパム・ベンゾ系睡眠薬)、マグラックス(便秘薬)、ベルベロン液(下剤)……これらの中から数種類(エビリファイを中心に)1日に3回処方されていた)。

大田さんは、ソワソワ感やアカシジア、歩き方がおかしくなる、激しい便秘等々、副作用が激しく出たため、夕方に病棟を巡る主治医に、それを伝えると、薬は徐々に減っていった。

退院時の薬は、

エビリファイ18mg

ビビッドエース1mg(フルニトラゼパム)

マグラックス330mg×2

これらが、夜1回となった。


 大田さんからのメールを紹介します。

「入院中、意識と記憶が定かになってからの私は、ソワソワ感解消のため、イヤホンで大好きなサラ・ブライトマンの音楽を聞きながらとにかくよく歩きました。朝晩に太極拳をし、落ち着かなくて歩かずにはいられないのですが、流石に歩き疲れるとストレッチや体操をしたりもしました。常に体を動かし続けたおかげ!?で体重は5キロほど減りました。

また、時には、他の患者さんたちとカードゲームや将棋等をして楽しむように心掛け、早く退院したいと焦る気持ちを紛らわせました。事実、見ると患者さんたちは皆さん、程度の差はあれ一様に、あの独特な淀んだ目をしていて表情は堅く、その動作はぎこちないものでしたので、私も長くいたら、きっとああなってしまう、と焦らずにはいられなかったのです。

主治医から正式に告げられた病名は、一過性精神障害。

「症状は統合失調症と同じだが、回復が早いので、その手前まで行ったのでしょう。ほぼ統合失調症ですから、治療もそのように進めていきますね。あなたが飲んでいるエビリファイという薬は、歩き方がおかしくなるなどの副作用がでることがあります」とのことでした。


私の入院中、単身赴任の主人は、子どもたちのために毎日家から通い、子どもたちと家事を協力して生活していたようです。子どもたちの習い事の送迎では、実家の父も協力してくれました。

主治医は、こういった状況も考慮して、早めに退院させてくれたのかもしれません。

退院時、荷物を運んでくれた看護士さんが、

「こういう所には、あなたみたいに真面目な人が多いですから、あまり真面目過ぎないようにね。そして、二度と入院しないでね」と話してくれました。

退院後の通院は、はじめ10日ごと、それが2週ごとに、1ヶ月ごとから2ヶ月ごとへとのびていきました。

日々の生活は、出来る限りで病院での規則正しい生活を心掛けました。

朝6時起床→散歩・太極拳→朝ご飯準備→子どもたちの送り出し→掃除洗濯・歩きで買い物→昼食→洗濯物取り込み片付け→夕飯準備→子どもたちの帰宅→夕方6時夕飯服薬→片付け→入浴→夜9時半までには就寝

といったかたちです。

車の運転は2ヶ月ほどで復活し、子どもたちの習い事の送迎が出来るようになりました。

主人は、私が運転出来るようになったのを見計らって、毎日の通勤を以前通りの週末帰宅→月曜日朝出勤の生活に戻しました。