治美さん(仮名・38歳)という女性からメールをいただき、お話をうかがうことができました。体験談を紹介します。



過呼吸でデパス服用

 治美さんは25歳の頃、勤務中に過呼吸になり、その後も同様の症状が続いたため、近くの心療内科を受診しました。じつはそうした素地は高校生の頃からあったと言います。アトピーになり、それが原因かどうかわからないものの狭い空間にいるとパニック的になる。このとき出た過呼吸もちょうど同じような感じだったと言います。

処方された薬は、デパス、パキシル。

 当時は薬の知識もなく、医師の指示通り薬を飲みましたが、デパスのみでも症状が緩和されたため、パキシルは服用しませんでした。そのときデパス1㎎×3回(朝昼晩)、1日量3㎎。

 しかし、通院のたびごとに薬は増えました。メイラックス、マイスリー、ソラナックス。治美さんがとくに何かを訴えているわけでもないのに薬だけが増え、さすがにおかしいと感じたため、出された薬は飲まず、デパスのみを飲んでいました。

 それでも、今から思えばデパスの副作用……脱抑制となり、買い物依存気味になったこともあったと言います。

 しかし、「デパスは軽い薬」という医師の言葉を信じて、服用すること10年近く。

 その頃は1日のほとんどを寝て過ごすような生活になっていました。そして、デパスの量も増え、最初の2倍、6㎎を飲んでいたと言います。

 そんな娘の状態を見かねた父親に連れられて、治美さんは国立の精神科を受診することになりました。依存症を専門に扱う病院です。

 しかし、そこでは減薬の話は出ないまま、結局、同量のデパスが処方されただけでした。重症の人が多いその病院にしてみれば、「たかがデパス」という考えがあったのかもしれません。

ただ治美さんにしてみれば、これまで薬を飲んでいることは両親にも内緒にしていたため、これを機に知ってもらったことだけでも安堵感があったと言います。

 しかし、2013年、その優しかった父親が突然の自殺……。

 


転院

治美さんは不眠となり、医師はエバミールを追加しました。

 しかし、その後も不調は続き、落ち込んだ気分のまま治美さんは仕事も辞めて、横浜に転居。それにともなって転院となりました。

 転院先は横浜でも有名な大きな病院です。担当の医師は4050代くらいの物腰の柔らかい雰囲気の人でした。白衣は着ておらず、話しやすい雰囲気で、診察室には、医師の他に女性が1人いました。その人が、治美さんが話す言葉を一言一句、パソコンに入力していきました。後でわかったことですが、彼女は臨床心理士でした。

 医師に一通りの経緯を説明しながら、父親を亡くしていた治美さんの目からは涙がとめどなく溢れました。

 すると医師は、治美さんの手を取り、一緒に涙を流したと言います。臨床心理士も同様、涙を流していました。

 治美さんが言います。

「冷静に考えればおかしいんですけど、その時の私は一緒に涙を流してくれる人というだけで、医師を信用しました。初めて自分の悲しみを理解してもらえたと思って」

 最初出された薬は紹介状にあった通りのデパスとエバミールでしたが、その後、医師から療養のためと言われ、軽い気持ちで入院。

 それがまさかこんなことになろうとは……。



入院中の薬の量の異常さ

 その日の夜から突然、ものすごい量の薬が出るようになったのです。

 トリプタノール・サインバルタ・エビリファイ・サイレース・レメロン・レキソタン・デパス・デジレル・レボトミン・リボトリール・アーテン・ウブレチド……。

 抗うつ薬、抗精神病薬、ベンゾ系睡眠薬、ベンゾ系抗不安薬、抗パ剤、そしてなぜか排尿を促すためのウブレチド(抗コリン作用(抗パ剤)の副作用(閉尿)に対しての処方と思われる)。

一応、「うつ状態」との診断です。薬の説明は一切なし。しかも薬は一包化されていました。

 当然のことながら、その日の夜から脳が興奮状態に陥り、まったく眠れなくなりました。それを訴えると、更に睡眠薬が増やされました。

 意識は朦朧として、深い思考ができないまま、病院側からも「退院」という言葉が出ずに、結局3ヶ月も入院(つまり、上記の薬を服薬)してしまったと言います。

 体重が20㎏増えました。まったく別人のようになり、さすがにそれまで素直な患者だった治美さんも、これほどまでに太ったことから病院に不信感を抱き、退院を申し出ました。

 すると、その日から3週間、主治医は診察をまったく行わず(つまり放置されて)、行き詰った治美さんは当時相続の件で依頼していた担当弁護士に相談。すると、即退院許可が出たと言います。



離脱症状噴出

 退院と同時に、デパスを残して、自己判断ですべて断薬。当時は薬への恐怖感しかなく、離脱症状のことも知らず、やめれば体調がよくなると思っていたと言います。

「まさか、こんなことになるとは……」

 想像を絶する離脱症状から寝たきりとなり、入浴もできず、肌はボロボロ。顔面かさぶただらけとなり、さらに、10分と持たない頻尿、浅い呼吸、かすみ目、複視、聴覚過敏……。

 なかでもアカシジアの症状がきつく、あまりの辛さに救急に駆け込んだこともありましたが、離脱症状を理解されず、何の処置もされないまま帰されたと言います。

 そして昨年の10月頃のこと。これまですっかり忘れていたことだけれどと、治美さんから次のような内容のメールが来ました。

「離脱症状でいよいよ限界を感じて、衝動的に○○県(家から100キロ以上も離れた場所)にある▽▽橋(高さ100メートル以上もある橋)までタクシーで行き、飛び降りる寸前、タクシーの運転手さんが警察へ通報したため(してくださったため)、パトカーが何台もやって来て保護されました。

その後、〇〇県の精神科へ連れて行かれ、保護入院の可能性がありましたが、必死に訴え母親に迎えに来てもらい、事なきを得たことがあります。」



そうした経験を経ながら、いまデパス以外の薬をやめておよそ2年経過。私にメールをくれた頃(8月下旬)からようやく起き上がれるようになったと言います。

しかし、現在もほとんど眠れない状態が続いています。デパスは朝夕1㎎ずつで、日に2㎎まで減ってきました。

このままでは自分がだめになると思い、薬は増やさず、針治療に通い、規則正しい生活を送るように心がけています。減・断薬のブログを読んで、離脱症状はずっと続くものではないこと、いつかはよくなると信じて毎日を過ごしていると言います。

「実際、少しずつですが、こうしてブログを読んだり、人と話ができるようになったり、回復は感じています」と治美さん。

それでも眠れないのはやはりつらい。横にはなったものの朝までほとんど眠れない……。

近くにある睡眠障害専門の病院(そこは生活改善によって治していくという趣旨)を治美さんは最近受診したと言います。が、診察で話に出たのはやはり薬のことでした。メラトニン作動薬で、耐性、依存がないとの説明。しかし、治美さんは「もう薬は使いたくない」ため通院はしていません。


ところで、現在は最初父親に連れていかれた国立の病院に通っています。

そこでデパスを減薬していると言います。医師の指示は、0.5㎎を1週間ごとに減らしていくというもの。少しペースが早いようにも感じますが、一応離脱症状は理解しているそうです。

ただ、現在も離脱症状はかなり出ているようです。不眠はもちろん、うまく呼吸ができなかったり、ぐるぐる思考になったり、疑心暗鬼になったり……。

「脳がどうにかなってしまったんでしょうか。眠くて仕方がないのに眠りにつくことができません」



あのときはあれだけの薬が必要だった?

 治美さんは一度、あの入院時に大量処方をした医師――その後病院を辞めて、個人開業したそうです――に電話をかけて、当時の処方について説明を求めたと言います。

 医師は「当時はそれだけの薬があなたは必要な状態だった」「あのときは仕方がなかった」の一点張り。

 しかし、その医師が開院したというクリニックのホームページにはこんな文言があります。


「長年、精神科の治療をやってきて感じたことは、薬物療法は限界があることでした。

つまりお薬だけに頼ることなく、環境因子(家族関係、社会での人間関係、その他……)を見直していくことが必要であるということです。……」


いつその限界に気づいたのでしょう?

治美さんはあの入院によって「一瞬にして人生を奪われた気分です」と言います。本当に、なぜあのような薬が必要だったのか。「あのときは必要だった」とはどういう状態を指しての言葉なのか……?

治美さんが衝動的にタクシーに乗って橋に向かったのは、この医師が処方した薬の離脱症状の苦しさからでした。

父親の自死を経験したから治美さんの自死を恐れての薬の処方だったとしたら、この医師はまったく逆のことをしたことになります。

精神科には医師にとって「便利な言い逃れ」の言葉があります。それが通用してしまうところに、患者側と改革を促す点での「精神科の絶望」があるように感じられてなりません。