相談のなかで最も多いのが「薬をやめたいけれど、いい病院を知りませんか?」といった類のものだ。

 しかし、すでにブログでも何度も書いているように、やはり離脱に関する「いい病院」は「ない」のである。たとえある人にとって「いい病院」でも、一律に誰にとっても「いい病院」ではありえないし、そもそもある人にとって「いい病院」というものさえ、ほとんどないと言わざるを得ない状況なのだ。

 こんなに状態が悪いのだから、「医者が何とかするのが当たり前」……というか、離脱症状に対応している病院なり医師なりがいるのが当たり前……「どこそこの病院に行けば、医師が何とかしてくれる」と考えているから、「ぜひその病院を教えてほしい」ということになるのだろう。

 他の病気なら当然の考え方だが、精神科に限っては、そういう常識はまったく通用しない。しかし、そんな「非常識」はこの世界をそれなりに見てきた人でないと、すぐには了解不能らしい。


いい病院はない、行っても薬を出されるだけ。そうわかっていても、なお「いい病院を教えてほしい」と言わずにいられない、それほど苦しんでいる人もいる。

 前エントリのコメント欄に「Tさん」という女性が書き込んでいた。彼女とはこれまで何度か電話で話したことがあり、彼女のおおよその成り行きは知っている。コメント欄には何も書かなったが(病院情報を持っていないので書けなかったが)、今回また電話をしてみた。

ヒステリー球のため、小さな声しか出ないが、それでも病院には行かずに(行ける病院もないまま)、なんとか自宅で頑張っているという。8月はとくに体調がよくないので、一歩も外に出ていない。お風呂にも入れない。

現在は減薬の途中だが(アモキサン、レキソタンが残っており、支えに漢方を少し飲んでいる)、ただ、体調があまりに悪いので、あれ以来、ブログを見ることもできず、したがって、皆さんからのコメントも読んでいないという。私からは、悠さんが教えてくださったマッサージのことなど、伝えておいた。

また、ネットで調べて、ヒステリー球の対処法(大きな声を出したり、喉に指を突っ込んでオエッとやる空エズキはいいらしい。また、体調的に無理かもしれないが、カラオケなども)を伝えてみた。

ヒステリー球は自律神経の乱れ(交感神経優位の状態が続く)が原因と考えられる。また、普段、言いたいことを我慢して、胸にため込むタイプの人に出やすいと言われている。もちろん、離脱症状という大きなストレスを抱えて、体が緊張すれば、ヒステリー球は出やすいが、やはり性格的な傾向はあるように感じる。

家庭的な問題――家事ができない、子育てができない……すべてを背負ってくれている同居している母親への遠慮――そして、夫への申し訳なさ、Tさんはそうしたものをため込みすぎているような感じがした。

しかし、だからと言ってすぐに楽になれるこれといった解決法もなく、いろいろ話しても、結局、「辛抱するしかない」「時間が必要」と、言葉にしないものの結局はそういうことでしかない離脱症状の現実に、ひどく虚しい思いを抱いた。



「これらは貴方達の投薬が生んだ被害です」

 と悠さんが精神科の医師たちに呼びかけてくれているが、まさにその通りであるにもかかわらず、この事実を認める医師がはたしてどれほどいるだろうか考え込んでしまう。

 自分の処方によって患者が悪化したとは認めたくないのだろう。

そういう医師は、離脱症状でのたうちまわっている人を前にしてもなお、「あなたの元々の症状」と強弁する。あるいは、離脱症状は数週間しか続かないと思い込んでいる医師も多い(だから、数か月も経過して出ている症状は病気の症状であるという理屈になる)。

まず、医師は「離脱症状」というものをもっとよく知る必要がある。患者の訴えに耳を傾ける、医師としての誠実さも。

もっとも、離脱症状をよく知ったところで、「商売」にはならないのである。減薬にともなって薬の処方も必要がなくなるし、患者は患者で、離脱症状の辛さを延々とつぶやくし、しかし、そんなの聞いても金にはならない、そういうシステムになっている。3分診療で、処方箋も必要なくなれば、患者はそのうち通院してこなくなるだろう。

だったら最初から離脱症状として対応するのではなく、「新たな病気」として「投薬治療」をするほうが、そのときはちょっと安定するように感じるから患者も文句を言わないし、商売にもなるという、医師にとっては一挙両得の道を選んでいる(のかもしれない)。

ぜんぜん科学的ではないのだが、科学的であろうと思っているわけではないので、それで何の痛痒も感じない(のかもしれない)。



離脱症状で食べることもままならなくなり、栄養失調気味になっても、点滴一本受けるのに困難を感じる現実がある。そのような状態で精神科に行けば、たとえ離脱症状を認めたとしても、それによってこのような状態に陥っているのだから、薬を飲めば治るという理屈である。そもそもなぜ薬をやめようと考えるのか、薬を飲み続けていれば離脱症状などでないのだから、飲んでいればいいではないか、そう考えるのが精神科というところなのだ。

そして、内科を受診し、離脱症状で食欲不振……といえば、精神科の患者は診られないと断られる可能性も大いにある。


つい最近も上記のような相談を受けたのだが(離脱症状のため食欲不振なので、せめてそれだけでも何とかしたいのだが、いい病院を知りませんか?と)、私としては、まずは近くの内科に相談されてはどうですか、と答えることしかできなかった。

もちろん、精神科でも対応してくれるところはあるだろう。しかし、どこが対応してくれるか、確実な情報は持っていないのだ。まして1、2度のメールのやり取りだけでは、こういうところがありますなど(ないとも言えないがあるとも言えない病院の存在を)安易に紹介することなど不可能である。相性が合わず、下手なところに行けば、どんな薬を出されるかわかったものではないが、私には責任が取れない。



現在、Tさんも食事がほとんど取れない状態だという。根強い不眠もある。イライラ、じりじり感もある。落ち着かなさ、そしてヒステリー球による呼吸困難……。

こうまで追い詰められた状態であるにもかかわらず、「医療」が何の助けにもならない。普通に考えたら、これほど理不尽なことはない。「医療」が蒔いた種であるのに、精神医療にそれを刈り取る能力はない。

さらに、たとえ断薬できたとしても、残る症状はいくつもある。離脱症状は断薬したからといってきれいさっぱり消え去ってはくれないのだ。それどころか、後遺症的に残ってしまうものもある。そして、それらに対して精神医療はさらに無力だ。

だからこそ、最初から慎重な投薬であるべきなのに、「減薬、断薬」を視野に入れていない「治療」ゆえ、患者は突然「医療」から見捨てられる。



確かに、減薬、断薬をうたっている病院はいくつかある。多くがアルコールや違法薬物を主とした依存症の治療だが、処方薬依存にも対応している。

そして、確かに、減薬、断薬を行っている、いや、行おうとしているといったほうがいいかもしれない。というのは、離脱症状を認めるものの、ベンゾの置換に抗精神病薬を使うところも多く、結局、ベンゾは処方から消えたが、メジャーが残ったなどという本末転倒の結果になることもあるからだ。

また、離脱症状のうつをうつ病とされて、抗うつ薬が増えてしまった人もいる。(うつ病を治してから、減薬を考えましょうと説得されたのだ)。


それでも、そういうところで断薬に成功した人もいるのは確かだ。

なぜ成功できたのかと考えると、やはりいくつかの条件があるように感じる。

まず、最初から「断薬のために入院する」という目的を強く主治医に伝えておくこと。

また、向精神薬についての知識がそれなりにあること。ベンゾの抗不安薬や睡眠薬、メジャー、抗うつ薬、気分安定薬、漢方など、患者が知っていると医師もそれなりの対応をするようになるのは事実だ。

それから、離脱症状(おもに不眠)は織り込み済みなので、あまり大騒ぎをしないこと(入院の条件として、それを約束させられた人もいるくらいである。考えれば、患者をばかにした話だが、しかし、不眠をぼやきすぎれば、医師としては薬を出すしかなくなるのだろう)。

こうしたことは、減薬断薬においても「医者まかせ」では決してうまくいかないということを物語っている。たとえ、減薬をうたっていて、成功した人の病院でも、「医者まかせ」では断薬は絶対にうまくいかない。つまり、「患者次第」の部分も大いにあるということだ。

だから、安易な紹介はできないのである。「医者まかせ」で医者にかかると、医者にいいようにされてしまう、それが現実だと思うから。



しかし、その手の病院はやはり離脱症状等、看護師の教育はそれなりにできているようである。ある当事者は、「理解されている」という感覚は何よりも大きな安心感につながったと言っていた。

理解されているという安心感……それが離脱症状にとってどれほどの「薬」になるか。同じ状態でも受け止め方、感じ方がまったく違ってくるのは、ある意味で離脱症状というものの特徴だろう。

にもかかわらず、現在の精神医療は「離脱症状」を認めず、対処せず、したがって当事者は内にこもって孤独の闘いを強いられる。医師が理解しないものを、素人の家族が理解するわけもなく、家の中でさえ当事者は孤立して、辛い離脱症状がさらに辛いものへと変質していく。


だから、精神医療は自らまいてしまったその被害に対して、できることをやるべきなのだ。まずは離脱症状を認めること。離脱症状がなぜ起こり、それはどういうふうに心身に影響を及ぼすのか……(そういうことを患者に教育するのも医療の一つの務めと思うが、現状はまったく逆になっている)。

それがわからないで、単にポーズだけで、精神医療の目が「減薬」の方向に向かってしまえば、さらなる被害が当事者に降りかかることになる。


ここまで考えてきて、ふと思うのは、まるで、精神医療の中に当事者はいないかのようであるということだ。「患者の立場」というのがこれほどないがしろにされている医療分野も少ないのではないだろうか。

その怒りが多くの人にはあるのだろう。患者にも向き合わず、したがって「被害」にもきちんと向き合おうとしない。

百年河清を待つという言葉がある。

向精神薬が登場して60年ほど。これでは、あと40年待っても何も変わらないかもしれない。