先日、四国にお住いのあるお母さん(加藤さん・仮名・53歳)と電話で話す機会を得た。

 息子さんの自死……。

 あまりに冷たい精神科病院の対応に、お母さんはこの「死」を公表して、警鐘を鳴らしたいと思っている。



不登校、ひきこもり、幾たびかの挫折

 息子の裕也さん(仮名・享年28歳)は中学1年生の2学期ころから不登校となり、中3の途中からはほぼ保健室登校になった。

それでも地元の工業高校に入学。しかし、学校になじめないまま高2で留年、結局、自主退学してしまった。

 その後は家にひきこもったが、奮起して、東京のアニメ関連の専門学校に入学した。環境の劇的変化もあってか、そこでもやはり早い段階で登校できなくなり、結局、四国の実家に戻ってきた。

 その頃、裕也さんは東京の生活で飲酒を覚え、大量のアルコールを飲むようになっていた。

 そうした問題もあり、19歳で、地元の精神科クリニック(チヨダクリニック)を受診した。医師からは強迫性障害と診断されたが、これが精神医療に関わる最初の出来事となった。

 裕也さんはその後、自身を鼓舞するように、パソコンでさまざま検索し、発達障害やニートのサポートをうたっている福岡県久留米市にある「自立塾」への入塾を決意する。

またしても四国を出て、今度は九州へ……。そして、またしても「挫折」を味わうことになったのだ。

クリニックからの薬を飲みながら、東京で覚えた飲酒も続けていたため、入塾から3ヶ月ほど経ったあるとき、お酒を飲んで暴れてしまった。塾側としては、こういう状態では面倒見きれないとして、同じ久留米市内にある「のぞえ総合心療病院」を受診するように促した。言われるまま裕也さんは病院を受診して、3ヶ月ほど入院生活を送った。

その後、実家に一度は戻ったものの、「自立塾」のことがずっと頭にあった裕也さんは、もう一度塾に戻った。そして、なんとか塾の卒業証書は手に入れたのだ。

四国に戻ってからは、土木関係の仕事など力仕事に就いたりしたが、続かずに、職を転々としているうちに、またしても自宅に引きこもる生活になってしまった。



父親の自死

 今から3年ほど前の平成23年のことだ。自営業を営んでいた父親が経営的に苦しくなり自己破産となった。加藤さん一家は収入が途絶えた。父親は、そのとき住んでいた家を売って、自分の実家に帰ろうと加藤さんに提案した。

 しかし、その祖父が、「裕也を連れてくるな」と条件を出してきた。加藤さんは夫に詰め寄った。「なら、裕也を捨てるの? そんなことできない。お父さんだけ帰って」。

そう言われて、夫は「わかった、みんなで暮らせるアパートを借りよう」といったんは答えた。が、その2日後、自ら命を絶ってしまったのである。

もちろん、裕也さんには祖父の言葉は伝えていない。それでも、これまでの自分の人生を振り返って、裕也さんは父親の死は自分のせいだと思った。迷惑ばかりかけてきたから……自責の念に堪え切れず、今度はなんと裕也さんが近くの山から飛び降りた。

 脚を複雑骨折していたが、さいわい命に別状はなかった。近くの病院に救急搬送された後、しかし、精神的不安定さがあったため、裕也さんは地元の精神科病院の「くじら病院」に転院となった。


一度だけ診てもらった「東京の若い先生」は薬を減らしてくれたりしたが、あとの医師の治療はひどいものだった。

 お母さんはインターネットがまったくできないため、精神医療の情報が届かず、薬のことなどわからなかったが、その多さには違和感と不安を覚えた。裕也さんは脚も完治していなかったため、ほぼ寝たきり状態。そして、寝ているその耳には、看護師が患者に浴びせかける罵声がしばしば届いた。

「いつも患者が怒鳴られよる。ここを出たい」

 裕也さんのその言葉もあり、さらには薬の多さに危機感を抱いた加藤さんは病院側に退院を申し出た。すると、医師は「絶対退院させない」と突っぱねた。しかし、入院し続けていたらどうなってしまうのかという不安を抑えきれず、加藤さんは退院に踏み切った。

 治療は外来でと思っていた。

しかし、今度は「くじら病院」のほうが裕也さんの治療を拒否したのだ。退院を強行した加藤さん親子に対する腹いせの、診療拒否行為である。

 加藤さんと裕也さんは行き場を失った。診療拒否で突然の断薬ということにはならなかったものの、家にいて裕也さんはときどき不穏になった。ドライブに行きたがるので、そんなとき加藤さんは車で海に連れて行った。じっと海を見つめる裕也さん。波の音を聞きながら、少しだけ親子二人の静かな時間が流れていった。



再び「のぞえ総合心療病院」へ

 地元のくじら病院から診療拒否された裕也さんはその後、仕方がないので、以前行ったことのある福岡県の「のぞえ総合心療病院」を受診した。

 そして、診察を受けると、何の説明もないまま、即入院と言われた。看護師がやってきて、有無を言わせず、裕也さんの両腕を抱え込み、引きずるようにして、病室へと運んでいった。

加藤さんとすれば、驚き、戸惑いを隠せなかったが、このまま地元に帰っても診てくれるところがないとなれば仕方なかった。

 それに、病院の雰囲気は、悪くなかったのだ。患者のための卓球場があったり、ギターを弾いたり歌を歌ったりする人を見かけることも多かった。

 裕也さんは普通の病室で3ヶ月ほど過ごした。結果、かなり回復を見せたため、その後、この病院が行っている「住居支援」によってグループホームに移った。そこでさらに3ヶ月過ごし、さらに自立のためのアパートを探している最中に状態が悪化して、再び病棟への入院となってしまったのだ。


 そうした期間も、加藤さんは裕也さんがどんな病気なのか、診断名を聞かされたことは一度もなかった。薬もどのようなものが処方されているのかわからない……。

 


ある日のこと、病院から家族面談をしたいからと加藤さんは呼び出しを受け、四国から出かけて行った。

 病院に着くと、裕也さんは「鍵付き個室」に入れられていた。そして、医師の話というのは、「本人にやる気が見られないので、退院してほしい」というものだった。

「やる気がない」とはどういう意味かと尋ねると、医師はただ「やる気がないから」と繰り返すばかりだった。

 保護室に入らなければならないほど状態が悪いのに、退院などできるはずがない。加藤さんが訴えると、医師は今度は加藤さんにではなく裕也さんに直接、「あなたはどうしたいですか?」と質問を投げかけた。

 裕也さんは自分の気持ちのまま、「帰りたい」と答えた。

 その途端、医師は「じゃあ、帰りましょう!」。

そして、看護師に裕也さんをお風呂に入れるように指示をした。

「ちょっと待ってください、こんなに状態が悪いのに退院なんて……」

 あまりの成り行きに加藤さんは抗議をしたが、病院側はさらに、あっという間に、九州から四国へ帰るための2人分の航空チケットを手配してしまったのだ。(もちろん、そのとき加藤さんはそんな予定もなかったので持ち合わせがなく、病院側がチケット代を立替えたが、後に加藤さんは代金を支払った。)

 結局、裕也さんは車椅子で、飛行機に乗って四国に帰った。そのとき、意思の疎通はとれたが、言葉は出ない状態だった。


 

違う薬を出します

 加藤さんと裕也さんは仕方なく、翌日、地元の「チヨダクリニック」を受診した。「のぞえ総合心療病院」から、退院後はこのクリニックを受診するようにと言われていたからだ。

担当の医師は裕也さんを診察し、

「これまでとは違う薬を出しますから」と言ったという。

 裕也さんは言われるがまま、その薬を2日間、飲んだ。

そして、2日目の夕食後のことだ。どうも様子がおかしい。と思っていたら、突然テーブルをひっくり返して、「警察を呼べー!」と叫んで暴れだした。

 加藤さんは、こういうこともあるかもしれないと、包丁は隠しておいた。すると裕也さんは、おたまを包丁のつもりになってか、腹に突き刺した。加藤さんはあわてて119番通報した。そして、今か今かと救急車の到着を玄関先で待っていた。それがあだとなった。

加藤さんがいないすきに、裕也さんは川辺の上に建つ家の1階から7メートル下の川底へと飛び降りてしまったのだ。

 加藤さんが駆けつけると、裕也さんの意識はまだあった。救急車で搬送され、鎖骨骨折と片肺がつぶれているのがわかった。しかし、地元の市立病院から大学病院へ移されて、そこで興奮を抑える注射を打たれたと思われる。

 死因は急性心不全――。

 昨年、平成25年1月のことだ。



 裕也さんが亡くなった後、加藤さんは「のぞえ総合心療病院」に息子の死の報告と抗議の電話を入れているが、病院側の言ったことは「本人にやる気がなかったから……」。以前、退院を迫ったときと同じことを繰り返すだけだったという。

「あの状態で追い出すなんてあまりにひどい。医者じゃない。精神科の患者を人間と思っていないからできること」

 電話口で加藤さんは、「のぞえ」に対する思いを、決して感情的な言い方ではなく、そう言った。



「羊の皮をかぶった狼」病院

じつは、そのときの裕也さんの「のぞえ総合心療病院」への入院は、そろそろ3ヶ月になろうとしている頃だった。とすると、あの退院勧告は、3ヶ月の強制退院を迫ったということだろうか。あんな状態の悪い患者を? 規定通りに?

「のぞえ総合心療病院」のホームページはじつに「和気あいあい」の雰囲気に包まれている。文化祭あり、研修会あり、何種類ものミーティングあり、さまざまな居住施設あり。たくさんの「笑顔の写真」が掲載されている。(しかし、よくよく見れば、患者の顔写真にはもちろん紗がかかり、楽しそうなのは職員たちばかりである)。

 そして、書いてあることも非常に立派だ。

  医療哲学

――愛・信頼・希望――

愛あるところに信頼が生まれ 信頼あるところに希望が生まれる



 しかし、裕也さんへの対応の、いったいどこに「愛」があるというのだろう。

 3ヶ月の強制退院? 病院としての収入が3ヶ月を過ぎると半分になるからか? それとも、一度はよくなったものの、状態悪化で戻ってきた裕也さんは、病院にとっての「お荷物」だったということか。だから、冷たく放り出すのか。ご丁寧に航空チケットまで手配して、「さあ、どうぞお帰り下さい」と慇懃無礼に、まだ治療が必要な患者を途中で追い出すのか?



 じつは、この「のぞえ総合心療病院」はマスコミでも「よい病院」として紹介されている。重症の救急患者を多く受け入れているにもかかわらず、単剤化率はほぼ100%。統合失調症治療の抗精神病薬をどの患者に対しても、ほぼ1種類しか使わないということだ。そして、医師同士が処方内容を確認しあったり、患者と医療者側との合同ミーティングを行ったり……院内改革に成功したとのことである。


 それに間違いはないかもしれない。

 しかし、この対応の「冷たさ」は「単剤化率100%」の優等生の裏の顔か。

「のぞえは最初はいいかなと思ったんです。でも、少ししたらおかしいなと思うようになりました。看護師に笑顔がまったくないんです。こっちが挨拶しても、挨拶一つ返さない。お土産を持って行っても……看護師だけでなく、医者も冷たい感じで、まったく笑顔がなかった」



 本や雑誌にきれいごとを書き並べる医師がいる。そういう医師に限って臨床では、驚くべき治療を行っていることが多々ある。

 ホームページには素晴らしいことばかり書き、ソフトなイメージを全面に押し出している病院も多い。ほとんどは、言っていることとやっていることの間に大きな開きがある。開きがありすぎて、ホームページなどはなから信用する気にはなれないくらいだ。

それにしても「ここ」もひどい。まさに、羊の皮をかぶった狼である。「ここ」だけでなく、海に浮かぶ鯨が潮を吹いているのがトレードマークの「優しい」イメージの「あの」病院も、ひどいものだ。言うことをきかない患者は、診療を拒否するのである。



 裕也さんの死後、加藤さんは体調を崩し、自身も精神科のクリニックに通院している。薬も飲んでいる。一時は病気を理由に仕事を解雇されたが、最近また働き始めた。訪問ヘルパーの仕事である。娘さんが車で1時間ほどのところに嫁いでいて、そろそろ3人目のお孫さんができる頃だ。

 しかし、加藤さんは独り暮らし。そして、自分はもう、いつ死んでもいいという。

 今回の記事を書くに際して、病院名はどうしますかと尋ねたところ、「そのまま書いてほしい」と言った。あったことをぜひそのまま書いてほしい。大勢の人に知ってほしい。

 うちの息子は殺された。ふざけるな。人殺し。