引き続き、社会保険労務士さんへの相談、受け付けています。

詳しくは前エントリをご覧ください。

http://ameblo.jp/momo-kako/entry-11812494772.html

相談メール kakosan3@gmail.com



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現在、減薬中のある女性(仮にユキさん・28歳)から体験談に加えて、現在の仕事で関わることになった子どもたちの現状について伝えていただきましたので公開します。



最初は社会不安障害という診断

ユキさんが最初に心療内科を受診したのは、22歳、大学四年生のときだった。大学では障害児教育を専攻し、そこでのハードな実習をきっかけに――人前に出ると震えてしまう、しゃべれない、将来への不安感――そんな症状が出るようになった。

そこで、大学近くのクリニックを受診。そこでチェックシートの質問に答え、診察後「社会不安障害」との診断のもと、デプロメール25㎎、メイラックス25㎎が処方された。

そして、隔週の通院のごとにデプロメールが増量され、2~3か月後には150㎎になっていた。

 ユキさんのメールから。

「薬の効果はよく分からなかったのですが、とにかくだるく感じました。当時は、週に2日、子どもの施設の指導員のアルバイトと、卒業研究で大学に行く以外はほとんど引きこもったような生活になりました」



地元のクリニックへ(デプロメールの副作用?)

 しかし、結局卒業後は、進路が決められず、一人暮らしの部屋を引き払って、実家に戻った。そして、地元ですぐに予約のとれた精神科を受診すると、診断が「社会不安障害」に加えて、「うつ病」「睡眠障害」となった。

 薬はレボトミンやドグマチールなど抗精神病薬が処方された。副作用が強く、乳汁が出たり(このことでドグマチールだけは中止になった)、朝方転倒したり、昼間はまったく動けなくなったり、日常生活に支障が出たので、処方を変えてほしいと主治医に訴えるも、聞き入れてもらえず、ユキさんのなかで治療・医師に対する不信感が増していった。

 そこで、地元では予約がとりにくいが面倒見がいいと評判のTメンタルクリニックに転院した。(現在もそのクリニックに通院している。)

 そこでの診断は「反復性うつ病性障害」である。

主治医は、心理療法を重視する方針で、カウンセリング中心の治療だった。薬もユキさんが希望する通り、減薬する方向で進めてくれた。

レボトミンの断薬はできたものの、デプロメール150㎎の減薬は進まなかった。それでもメジャーがなくなったことで、昼間も活動できるようになり、ユキさんは、地元の社会福祉法人で、生活支援員として働くようになった。

しかし、本人も自覚していることだが、このあたりから、性格が刺々しくなり、すぐ口論したり、今まで男性と付き合ったこともなかったのに、付き合ってはやめるを繰り返すようになっていった。

 一方で、生活支援員の仕事はとても気に入っていた。自分でも性格が少し変わったように感じていたが、子ども好きで、世話好きだった性格は残っていたのかもしれない。

しかし、その職場で、10歳ほど年上の介護職の女性とうまくいかず、関係悪化。耐えられなくなり、思い切って辞職してしまった。勤務して1年だった。

 そのときユキさん24歳。辞職したものの、しかし、すぐに別の仕事が見つかった。実家のある県とは別の県の臨時教員として登録すると、特別支援学級の担任の話がきて、ユキさんは連絡があった1週間後には、アパートも決めて、その地方都市へ引っ越していた。

 この頃の処方は、SSRIのデプロメールが中心である。


 

一人暮らし、トラブル続きの私生活

仕事は充実していた。だが、一人暮らしの寂しさ、その空虚感を満たすために、ユキさんは男性関係を持ったり、友だちとメールでトラブルを起こしたり、私生活は乱れていた。たまたまその頃、両親は離婚調停中で、家族に助けを求めることもできなかった。

ユキさんは、月に一度帰省して、地元のTメンタルクリニックで、カウンセリングと1か月分の薬の処方をしてもらっていたが、半年で、別の小学校に異動になり、主治医から近くの病院に転院してはどうかと提案されて、赴任先のH病院に転院した。

 しかし――、

「信頼していたカウンセリングの先生と離れたことが不安でした。それで、次の病院でも、引き続きカウンセリング中心の治療を希望しましたが、様子見で決めたいと放置され、一か月経ち、その頃交際相手との関係も破局して……」

大量服薬して、近くの病院に入院となる。

その入院先の病院で、カウンセリングが受けられるクリニックとして、都内にあるAクリニックをユキさんは紹介された。パニック発作を起こしそうになるのを耐えながら(震える腕に爪を立てて抑えながら)、なんとか電車での通院を続けた。

希望通りカウンセリングは受けられたが、その後、自傷行為(リストカット)がエスカレート。また、突然一人で旅行に出かけたり、(飛行機の隣の席に大柄な男性が座り、パニック発作を起こしたこともある)、不安や寂しさを常に抱えていた。

しかし、実家は両親が離婚直後で荒れていたこともあり、ユキさん自身帰省したくない、でも安全な場所で過ごしたいという気持ちが強く、それを主治医に訴えると、都内の病院・Kホスピタルに休息のための入院を勧められた。

このとき、Aクリニックの医師は紹介状に「特定不能のパーソナリティ障害」と書いていた。それを見たユキさんはネットでいろいろ調べて、自分のことを「境界性人格障害」だと思い込んだ。(特定不能のパーソナリティ障害は、患者の症状に対して他のいかなるパーソナリティ障害も当てはまらない時につけられる)。境界性人格障害をネットで調べたことから、この病気は「自傷」してしまう病気なんだとユキさんは知り、そのことでかえって自傷行為を何度も繰り返すようになった。



入院したKホスピタルでは、パニックを起こすとヒルナミンの筋注がされ、さらにレボトミンの服薬が追加された。一週間ほどで退院。

そして、夏休みを利用して、二度目の入院である(3週間)。このとき、2年以上服薬していたSSRIのデプロメール150㎎がセロクエル等の抗精神病薬に置き換えられた。

デプロメールの離脱症状かセロクエルの副作用かわからないが、すさまじく攻撃的な思考や行動、ふらつきや転倒といった症状に頭は混乱するばかり。頓服に出されていたコントミンは一日の最大用量だった。

「今思えば、度重なる処方薬の変更で、副作用と離脱症状が相まっていたのかもしれません。とにかく希死念慮が強く、起きているときはずっと死ぬことばかり考えていました。朝が来るたびに、まだ自分は生きているということに絶望して長い一日を過ごしました」とユキさんはいう。


 夏休みが終わって、退院。学校に戻るも、ボールペンすら握れない状況だった。視界はぼやけ、子どもの世話どころではなく、不安は増すばかり。

そして、2週間後。またしても自傷行為をして、緊急入院(モニター室)となった。

そのときリスパダールが処方され、副作用でジストニアを発症したが、症状を訴えても、主治医の出勤が3日後なので、それまでは我慢するように言われた。さらに、この頃、あまりに奇行が続いたためか妹から絶縁をほのめかされて、不安定となったユキさんは、またしてもヒルナミン筋注を受けた。



軽い統合失調症?

退院して、頓服をポケットに忍ばせつつ学校に戻るも、手の震えや、じっとしていられない副作用(アカシジア)が顕著に出て、退職せざるを得なくなった。

そして、職を失ったショックで今度はうつ状態となり、4度目の入院である。

この入院時、ユキさんが主治医に診断名を聞いたところ、

「処方薬で気付いているかもしれないけど、軽い統合失調症」と言われたという。

(そのときの薬……リスパダール液3㎎+頓服1㎎、ロドピン、ヒルナミン、レンドルミン)

 このときはショックを受けて、外出時に本屋に立ち寄り、統合失調症の本を立ち読みしたが、あてはまる症状は一つもなかった。

(後日、都内のAクリニックの医師に確認したところ、「統合失調症ではない」とのこと。しかしその医師も、入院中に増えていた薬を(驚いてはいたが)、そのまま引き継ぎ、抗精神病薬を処方し続けている。)



入院中は、薬の副作用で、音がぼやけて聞こえ、すべてのものが二重に見え、嗅覚も味覚も感じなくなった。ひどいアカシジアで、狭い病室をウロウロ歩きまわり、「もうリスパダールは飲みたくない」と訴えても、看護師の監視の中、服薬を余儀なくされた。

そして、訴えてから一週間後、ようやくリスパダールがルーランに変更されたが、ほかにレボトミンやロドピンなどの抗精神病薬が処方されていた。

 ユキさんの中に、薬に対する不信感が広がっていく。

「処方薬のせいで、仕事を辞めなくてはならなくなったのでは?」と直接医師に不安をぶつけたが、医師はこう言ったという。

「その前に、薬が必要になった経緯をよく思い出して」

「私は自分がしてきた逸脱行動の数々を思い出して、それ以上反論できませんでした」とユキさんは言うが、「薬が必要になった経緯」さえ、じつは薬(デプロメール等)の影響だったのではないだろうか。



地元に戻る

退職から1か月入院し、退院後は行き場がなく、結局、実家に戻ることになった。両親は離婚が成立し、実家には父親が残っていた。

 地元へ戻ったとき、長く通っていたTメンタルクリニックが受け入れてくれた。そのときの処方は、ルーラン、ロドピン、レンドルミンだったが、ユキさんは断薬を訴え続け、医師も協力して、一度は断薬までこぎつけた。

しかし、悪寒と不眠と希死念慮の離脱症状が激しく、いまは仕方なく服薬を復活させている。(しかし、メジャーは断薬できている)。

今の処方は以下の通りだ。

セニラン5㎎ フルボキサミン(デプロメールの後発)50㎎ ブロチゾラム(レンドルミン)0.25㎎。

もちろん、現在でも、服薬に対する不信感と恐怖はあるが、一度失敗した断薬、その時に経験した離脱症状への恐怖もあり、減薬は慎重にならざるを得ない。



ユキさんのメールから。

「あの当時、いいようもない、孤独感と空虚感。それに耐えられず自分を傷つける行為に走っていたことが、人格障害の診断がおりた理由だと思います。自分自身、機能不全家庭に育ち、落ち着きのない子ども時代を過ごし、要素はあったと自覚して、思考の修正を……と出来ることをしてきました。

たしかに、元から持っている脆弱さや環境の過敏さはあります。それでも、服薬するようになってからの自分の変化は、副作用を疑わざるをえないなとかこさんのブログでの意見や事例を拝見していて感じます」



薬を飲んでからの診断名の移り変わり……社会不安障害からうつ病、人格障害、統合失調症……こうした診断名の変遷はまさにそれが薬剤性であることの一つの証のようでもある。

ユキさんもいうように、確かに、環境などによってその素地や要素は持っていたかもしれないが、薬が入ることによって、さらにそれが激しい形で現れたり、期間を長引かせたりした可能性は否定できない。医師はそれを人格障害あるいは軽い統合失調症と診断して薬をだし(増量)ているが、それでは何の解決にもならないどころか事態をさらに悪化させていることは、ユキさん(や、これまでこのブログに登場してくれた多くの人)が辿った道筋を見ても明らかである。