今回は、少々理屈を書きます。これまで何度か取り上げてきた「こころの健康政策構想会議」と「早期介入に」についてです。

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現在、日本の社会は「精神医療化」の方向に進んでいるといっていいだろう。不登校や発達障害の子どもたちを精神科につなごうとする動きもその一つだ。さらには職場におけるメンタルヘルス義務化の動きもある。

自殺者年間3万人超が14年続いているという事実をとってみても国民のメンタルヘルスはいま危機に瀕している、として、厚生労働省は2010年5月「こころの健康政策構想会議」(座長は精神科医の岡崎祐二氏(前松沢病院院長))という提言書を受け入れている。その提言書の中には次のような文言がある。


「こころの健康の問題は、精神疾患として認められるだけでなく、多くは緊急の社会問題という形で表れます。壮年男性では死因の第一位をしめる“自殺”、育児の困難を象徴する“虐待”、家庭で出口が見えない“ひきこもり”や“ドメスティック・バイオレンス”、学校で対応を迫られる“不登校”“いじめ”、青少年の“薬物汚染”、職場で増加を続ける“うつ”、悲惨な事故を引起す“飲酒運転”、街中で見かける“路上生活者”、高齢者の生活を脅かす“孤立”、これらすべての問題の基礎には、こころの健康の問題があります」


「こうした社会問題はすべてこころの健康が損なわれているから起こるのだ」

 というような言説の中に、私はどうしようもない欺瞞を感じる。それは、精神医療が歴史的に繰り返してきた、社会を欺くときに使う常套手段であり、ある種の“いかがわしさ”の匂いである。

 提言書の別の部分では、こうも言っている。


「わたしたち精神疾患の当事者と家族も、この病に罹ってからは人生が一変しました。その苦難は筆舌に尽くしがたく、国の対策の遅れを深刻な問題と感じるようになりました。」

「重症化した当事者と家族のなかの多くの人々が、医療と福祉から必要な支援が得られず……それに耐えている状況はまさに人権の放棄であり、社会不安の温床です」


 要するに、社会問題のすべてに心の問題が潜み、その心の問題を放置すると病気が重症化して、このような悲惨な状況に陥ってしまう。だから、精神医療を充実させて、社会不安を取り除かなければならない、というわけだ。そして、その論理の裏にちらつかせる“人権”というカード。



〈常套手段〉

 次の文章を読んでほしい。これは、精神医学の黎明期、大正7年に書かれた『精神異常者と社会問題』(杵淵義房編著)の一節である。



「社会問題と精神異常との関係は密接にしてかつ広大なり。しかも精神異常者に関する世上一般の智識は深からずして、いまだその普及を見ざるは我邦現代文明の一大欠陥なりとす。顧うに精神異常と称すべきものはその数甚だ多く、しかしてその種類また多岐にわたり、一面最も憐れむべき病者たると共に、他の一面においてはまたじつに社会をト毒するの悪分子たり。すべからくその本態を研究し、その性質をセン明し、もって個人の救済を図り、もって社会の幸福を増進せしめるべからず」



 この論理は、今回の提言書の中で見事に繰り返されているといっていい。箇条書きにしてみよう。

「社会問題と精神異常との関係は密接にしてかつ広大なり――」

これは前述の通り、そのままそっくり同じである。

「精神異常者に関する世上一般の智識は深からずして――」

提言書では、啓蒙普及活動を掲げている。その一例が前にも取り上げた教師向けの『心の病気 ハンドブック』などである。

「いまだその普及を見ざるは我邦現代文明の一大欠陥なり――」

この論理はよく使われるものである。欧米ではこのように進歩しているのに比べてわが国はいかに遅れているか、このままでよいわけがない、という論理だ。

「(精神異常と称すべきものは)じつに社会をト毒するの悪分子たり――」

提言書の中では、病気が社会に与える負担(医療費や社会保障費、さらには就労不能による経済的マイナスなど)は精神疾患が全体の四分の一を占め、トップであると指摘している。これは言いかえれば、精神疾患を社会のお荷物と見なしているということで、「社会をト毒するの悪分子」という捉え方そのものだ。

「もって個人の救済を図り、もって社会の幸福を増進せしめる――」

提言書では、立ち遅れた精神医療政策による被害者としての嘆きを取り上げ、こうした人を救わねばならないと人道主義的視点を強調している。こう言われて、この政策に反対を唱える人の口は封じられるというわけだ。

一方で、「悪分子」たる「個人の救済」とは、とりもなおさず、この時代においては、精神病院への収容を意味し、「救済」という人権配慮というポーズをとりながらも要するに精神障害者を社会から「排除」し、それが、提言書の中においては、精神疾患の「早期発見」「早期支援」という発想に置き換えられる。

つまり、精神疾患は重症化する前に「治療」につなげることで、個人も救済され、社会の負担も軽減され、みんながハッピーになるという論理、まさに「社会の幸福の増進」につながる、という論理に一致するのである。



〈精神医学の野心と欲望〉

 その昔、精神障害者は医学的手当ての対象ではなく、隔離監禁の対象でしかなかった。その意味で精神医学は医学として立ち遅れていたといえる。そして、その地位を向上させるための方法が、社会のすべての問題を精神障害と結びつけて捉えるやり方だったのだ。「狂気」と「犯罪」を結びつけ、社会の不安をあおり、その不安を解消できるのは精神医学であると主張した。

最近あらためて読み返してみた芹沢一也氏の『狂気と犯罪』の中にじつに示唆に富む一節がある。



「「狂気」は常識的な眼差しには捕えられない、目に見えない性質と化すのだ。人々に気づかれることなく、社会のどこかにこっそり潜んでいる。しかも危険な性質だ。

そのような目に見えぬ「狂気」が精神医学の眼差しによって「犯罪人、不良少年、浮浪者、乞食者、淫売婦」といった存在のうちに発見されたのだ。

精神医学の野心の大きさと欲望の深さがわかるだろう。精神医学は「狂気」の周囲に社会問題のすべてを寄せ集めようとしているのだ。そして、それは成功した」


「要するに、自らが蚊帳の外におかれていた社会を、精神医学こそが主導権を握るような社会に変えようとしたとしかいいようがない。精神医学は「狂気」を監禁する社会をなくそうとしたのではない。ただ、自らがそこで主役となるような論理をつくり上げたのだ」

 

 これはそのまま「すべての社会問題の裏に心の問題がある」と主張する現在の精神医学の野望と重なるものだ。先の「こころの健康政策構想会議」という提言書は、現代の精神医学が社会の主導権を握らんがための見取り図と言えなくもない。

それを世間に受け入れさせるためには、その昔なら社会に潜む狂気の存在を大げさに吹聴して人々の不安をあおればよかったが、人権思想がある程度行きわたった現代ではそうもいかず、この閉塞的な社会の中で心を病む人がいかに増えているか、その結果の自殺者の増加を訴え、誰でもそのような状況に落ち込む可能性を喧伝して不安をあおり、さらにそれがいかに社会的損失を生んでいるかを、人道主義とからめつつ論理構成していく。そして、こうした事態を防ぐためには、精神疾患をいち早く見つけて、可能な限り早く治療をする必要があると説く。

 提言書曰く。

「精神疾患に罹っても、本人と国の被害をできるだけ少なくするには、特に若い人々が罹患したときに直ちに治療を開始してなるべく早く回復させ、社会の活動に戻さなければなりません。これまでその対策が遅れていたために、四〇万人から三〇〇万人とまで言われている「ひきこもり」が発生し、社会の重大な問題になっています。重症化して入院するまで放置される今のあり方を早急に改めなければ、多くの若者の人生が損なわれ国の損失が嵩みます」



〈早期介入という保安処分〉

「ひきこもり」が精神疾患の対策の遅れによる産物であるかのような言説だが、ともかくここで浮かび上がってきたのは、つまりこういうことだろう。社会の中で精神疾患が身を隠している仮面とは、「ひきこもり」であり、さらには、前述のように、自殺、虐待、DV、不登校、いじめ、薬物汚染、うつ、飲酒運転、路上生活者、孤立であり、そのような人々は「国の被害、損失」を増大させる存在として、いち早く精神医療につながなければならないのだ。

 若者の精神疾患の「早期発見」「早期介入」は、まさにいまだ発見されていない、そうした仮面をかぶった精神疾患を狩り出すことであり、そのことが「個人と社会の幸福の増進」につながるという論理であるが、それは、一〇〇年前の精神医学が編み出した論理そのままであることがわかるだろう。

 早期介入は精神医学が社会の主導権を握るために考え出した一つの手段にすぎない、と言ったら言い過ぎだろうか。

 しかし、この提言の中に盛り込まれ、現在進められようとしている若者の精神疾患の「早期発見」「早期支援」(「介入」という言葉は慎重に避けられている)は、このブログの中で取り上げてきたような被害事例の多さを見ても、精神医学が本気で若者の精神障害に対して“支援”しようとしているとはとても思えないのである。

それはこれまでの精神医学の唱える人道主義が、精神障害者を救済するという名目のもと、実は彼らを社会から排除することしかしてこなかったように、あるいは、精神医学は常に精神障害者から社会を守るという、社会防衛・治安の思想に裏打ちされてきたように、人道主義と本来ともにあるべき人権と結びつくことが決してなかったからだ。

 若者の精神科早期介入は、その意味で、保安処分につながるものである、という言い方は、あまりにブラックな皮肉だろうか。