(1からのつづき)

入院、即隔離拘束、そしてECT

まつ毛や腕が痙攣を起こし、激しい喉の渇き、首や腰の痛みで目が覚めました。目が覚めると、手足が拘束され、暗い個室に入れられている事に気がつきました。めまいや頭痛よりも、呼吸がうまく出来ず、とにかく激しい喉の渇きに襲われました。ドアのノックもなく、「ザーッ」というドアのスライド音が聞こえると、光が右後ろから部屋に入って来ました。

紫色の服を着た男が何かを私の口の中に入れました。この時、私はかなり意識が朦朧としていましたが、口に物を入れられたのと同時に上から水をかけられ、また喉の渇きもあって、与えられた物を飲みこまざるを得ませんでした。しかし、うまく水を飲む事ができず、拘束されながら私はむせ続けました。

男は「黙ってろ!」と言い、個室の外へ出て行きました。隔離・拘束をされている状況から、私はめまいと頭痛、身体拘束が要因での腰や首の痛みをこらえ、その疲れや絶望感から気絶するように寝入りました。」




カルテによると、ヘンリーさんが救急車で病院に到着したのは18時20分である。

黒崎医師はその時の様子を以下のように簡単に記している。

「alやボルタレンODによるせん妄、興奮、めつれつ状態」

そして、上記のように診察とも言えない診察を受け、すぐに看護師らにはがいじめにされて注射が打たれた。

その後、隔離室へ運ばれ、気がつくと四肢体幹肩の拘束が行われたていたのである。このとき彼は衣服をすべてはぎ取られ、導尿のカテーテルも装着されている。食事も拘束されたまま、看護師によって食べさせられる状態である。


隔離室でヘンリーさんは喉の渇きで幾度となく目覚め、意識がもうろうとする中でめまい、頭痛、拘束による首や腰の痛みを感じた。それを看護師に訴えたが、看護師はいっさい取り合わず、それどころか「あー、うるさいなー。あまりうるさいと注射、チュッチュしちゃうよ!」、「お前みたいな奴の為に精神科があるんだよ!」と言い放った。

 また、これが母親による策略であることを訴えるため、これまで密に連絡を取り合っていた○○警察署に、母親や家族から被害を受けていたこと、母親の狂言癖や異常行動に関して、事実確認をするようにお願いしたが、これもまた看護師たちが耳を傾けることは一切なかった。

 さらに驚くべきことに、入院して1時間あまり後の19時38分には、1回目のECT(電気けいれん療法)が行われているのである

 

 再び、彼の手記から。

「医療機器が出す「ピコー、ピコー」という音と私の右腕にひんやりとした物を塗られていたことから私は目を覚ましました。私は、ベッドに拘束されたままの状態でした。

痛い首を右に向けると、私の右手は拘束されていました。すぐ目先には室内の壁がありました。首の痛みで部屋を全体的に見渡すことは出来ませんでした。部屋には黒崎信也以外に二人の看護師の姿しか見えませんでした。黒崎は私の右腕を触っていました。腕を消毒して、注射を打つ場所を探しているようでした。

彼は「はい、目を閉じてー」と言いました。私は黒崎が右手に注射器を持っていたのを確認し、「あっ、注射を打たれる……」と思い、その注射が打たれる場所を凝視し続けました。黒崎の注射の打ち方や指先は、独特で印象的でした。注射を打たれた私は、「スゥー」と意識を失いました。

ECTを終えて個室へ戻った時、再び明確に意識が戻っていました。その時、私はまるで束ねた電流を投げられ、それを正面から受け取ったような体感がし、「ウヮー、ウヮー」と奇声を上げて叫んでいました。

隔離されている室内は空調で涼しい。しかし、私の体内は燃え上がっているように電流が流れ続け、呼吸が大きく乱れていました。意に反して乱れる私の体は縛られている拘束帯に食い込んでいました。乱れ続ける呼吸。

私は「どうにかしなきゃ」と思い、意図的に呼吸を止めては、整え、止めては、整え、やっと「フワァー、フワァー」という荒い呼吸から、整った呼吸へと戻すことが出来ました。すでに、全身が汗だくになり、首を流れる汗に「どうすればいいのか……」と感じ、落ち着きを取り戻した時、まつ毛や指先などに行き場を失った電流が向かい、溜まっているようでした。自分の右手を見つめた時、震えていました。電流で痛い。でも、その痛みで手が震えている訳でもなく、もう自分の右手では無くなっていることに気が付きました。」



6回行われたECT

その後もECTは、2月16日、18日、20日、23日、25日と続けられ、計6回にのぼる。




「意識レベルが低下し、私は相当衰弱していました。私は抵抗をする、物事を訴える事もまともに出来ない精神状態まで陥っていたかもしれません。口から出せる声も相当小さくなっていました。朦朧とする意識の中、「サー」とドアをスライドさせる音と共に無言で看護師らが隔離室へ入ってきました。ベッドが揺らぎ、私はベッドに拘束されたまま部屋から連れ出されました。

隔離室から出る時、ドアにベッドがぶつかり、私は「またどこかへ連れて行かれる……」と自覚しました。

私は、ECTについてなど一切の説明を受けていませんでした。朦朧とした意識の中で私は「どこに行くの?」と拘束されたベッドの上から廊下で男性看護師に質問をしていました。男性看護師は、「ECTをする」と返答しました。何も聞いていない私。

私は、「ご飯は?」と言うと、その男性看護師は淡々と「ECTだから無理。」とバッサリ。廊下には、直射日光が入り込み、その直射日光が仰向けに拘束されて移動される私の目にも入り込んできました。でも、私の目、身体はその直射日光に反応をする事はもうありませんでした。もう私の意識レベルは、本当に、本当に低下していました。



移動式ベッドのローラーを固定する「カッチャ」という音から私は自分の意識を取り戻しました。私の呼吸が乱れていました。体ではなく、頭の中に電流が流れ続けているのがわかりました。指先、まつ毛など、いろいろな先端で電流を部分的に感じていました。

指先は少しだけ震えていました。体が熱い。でも、初期のように体内で電流が流れているようには感じませんでした。私の体が電流に慣れたのではなく、むしろ私の体、知覚神経は、何の痛みにも反応をしなくなっている状態でした。

指先などに流れ溜まる電流。微かな意識。私は突然の痛みに小さな声で「ウウウ……」と発しているのみでした。「ハァー、ハァー」と小さな声で乱れていた呼吸。私はその乱れた呼吸を整えました。「フー、フー」と。私の呼吸は、もう正常でなかったのは確かです。水泳で鍛え上げた肺活量。肺にも異変を感じていました。私の呼吸量は著しく低下していました。呼吸で口から肺に届く酸素量が正常値とは明らかに違うことを実感していました。肺に空洞が出来ているように感じていました。



「私は、朦朧とする意識の中、自分が何をされたかを問いただし、やられた事態を把握しようとしました。私はECTの事を知らず、呼吸が乱れている中、看護師からECTについて「記憶が無くなるだけ」と普通に言われました。

私の場合、記憶を失うのではなく、記憶がバラバラになりました。しかし、私はECT直後の看護師との会話によって、パズルのように自力で回想し、記憶を再生することが可能でした。黒崎信也からECTについて説明を受けたのは、病院へ入院させられ、開放病棟へ移動させられた頃でした。それは、「記憶を失う」や「生死」についてではなく、「○仁病院のオリジナルで、頭がスッキリするからさ」のみでした。

                                          (つづく)