すでに読まれた方もいると思うが、YOMIURI ONLINEの読売新聞医療サイト(ヨミドクター)で佐藤光展記者が「精神医療ルネサンス」を連載している。その中で「保護入院の闇」http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=51365  として掲載されたケースをご存じだろうか? 今回、本人の希望もあり、この事件を当ブログでも何回かに分けて紹介することになった。

この事件の被害者は、自身のブログで「ヘンリーくん☆」と名乗っている。したがってここでもそれにならって主人公をヘンリーさんとする。

(ブログ http://ameblo.jp/seijinsaiban/

彼は現在29歳。佐藤記者の記事では触れられていなかったが、じつは今、医療保護入院となった病院と担当医に対して損害賠償を求める裁判の真っただ中にいる。

裁判はすでに地裁で争われたが、弁護士を立てない本人訴訟だったためか敗訴となり、現在は高裁での審理に移っている。

医療保護入院とそのときに行われた治療行為そのものに対して損害賠償請求を求めるというこの裁判――傷害や無診察診療などを問う訴訟はこれまでいくつかあるものの、治療行為そのものに対する訴えということで、私は大いに注目しているのである。




母親との確執

 まず事件の概要を説明する。

ヘンリーさんの医療保護入院が行われたのは2009年2月13日である。

しかし、その事件の発端となる出来事が、それをさかのぼること2年の2007年に起こっている。

 ヘンリーさんは、彼いわく「母親のお気に入り」である実の兄から暴行を受け、2007年に兄を刑事告訴している。それに対して母親は再三告訴の取り下げを求めたが、彼は頑として聞き入れず、 その頃から、母親の異常とも思える行動が始まった。

息子に暴力を振るわれたとたびたび110番通報をするようになったのだ。しかし、警察官がやってきても、暴行の痕跡は認められず、その後も通報があまりにも頻繁で、なおかつ被害が認められなかったため、警察はまともに取り合わなくなった。

すると母親は、今度は保健センターに「悩み」を訴え始めたのである。


このあたりのことは佐藤記者の記事に詳しいので、引用させていただく。

「ヘンリーさん(原文ではタカオさん)の母親は、自宅近くの2か所の保健センター(以後A、Bで表記)を訪れ、「息子が精神疾患で暴力をふるう」などと被害を訴え始めた。最初に対応したA保健センターの保健師は、母親の訴えを信じて嘱託の精神科医に面接を依頼した。

 この医師は、大学病院に長く勤務したベテランだったが、母親の話だけでヘンリーさんを「人格障害(パーソナリティー障害)」と決めつけ、「統合失調症の疑いがある。措置入院(いわゆる強制入院)させたほうがいい」と勧めた。さらに保健師は、「(本人の同意がなくても母親など保護者の同意で行える)医療保護入院という方法もある」と母親に説明したという。

ヘンリーさんの問題発生後、B保健センターに赴任し、経緯を詳しく調べた元センター長は、「母親は最初、措置入院や医療保護入院の制度を知らなかったが、精神科医や保健師の不適切な対応で、さらに深刻な問題が引き起こされた」とみる。

 だが、母親を途中から担当したA保健センターの別の保健師は冷静だった。改めて違う嘱託の精神科医に依頼し、実家でヘンリーさんを直接診てもらった。結果は「明確な妄想は認められない。見識もはっきりしている」。精神疾患は否定された。

 この保健師は、母親の訴えの真偽を探るため、警察署にも問い合わせた。刑事課の担当者は「110番が頻回にあり、その都度出動したが、本人は冷静に対応できており、措置(措置入院)にはならなかった」と答えた。これらの調査から、この保健師は「母親側に問題がある」と判断し、母親に口頭で注意をした。だが、母親の行動は止められなかった。」――以上引用




救急車で運ばれたのは精神科病院だった

そして、問題の2009年2月13日がやってくる。

 その頃、ヘンリーさんは鼻の奥が化膿する病気を患い、頭痛やめまいに苦しんでいた。事件当日も、体調がすぐれなかったため実家で休んでいると、突然救急隊員が部屋に入ってきた。戸惑いつつも、彼はあまりに具合が悪かったので、てっきり耳鼻科の病院へ連れていかれるものと思い込み、素直に救急車に乗り込んだ。

 しかし、到着したのは、都内の家からほど近い精神科病院(○仁病院)だったのだ。



 その日の消防庁の記録――「救急要請の概要」にはこうある。

「本日、母親が○仁病院で息子の精神的な面からくるめまい、全身の痛みの相談のため医師と面談した結果、とりあえず当病院を受診してほしいとのことから要請した。」

 つまり、事前に(この日の午前中)母親が○仁病院にやってきて相談を行い、夕方(記録によれば17時53分)ヘンリーさんを受診させるため救急要請したということだ。



 母親が相談したときヘンリーさんの名前で作成された相談表には、聞き取りをした病院関係者の文字で(非常に読みにくい)おおよそ次のように書かれている。

「1年くらい前から、暴言、暴力をふるう」「大声を出す。『テメーのおかげでこうなった!』。父へも暴力。2年前に一人暮らし。実家に現れると暴力。パトカーを呼んだこともある。以前はとても優しい子。」等々。

 そして、その相談表の最後には――。

「お迎え入院を検討」



そして、その日の夕方、「お迎え入院」のため救急隊員3名がヘンリーさんの部屋にやってきたというわけだ。

以下は、ヘンリーさんが裁判資料のため、当日の様子を自ら書いて提出した文章の一部である。


「自宅から病院に救急搬送をされている間、私は救急車のサイレン音で一度だけ目を覚ましました。それは、救急車が交差点で赤信号を通過する際にサイレン音を大きくし、救急隊員が拡声器を使って青信号を通過している車両に「救急車両、赤信号通過します」との声でした。その拡声器を使った救急隊員の声で目が覚めると、なぜか横の同乗者席に母親がいました。(略)



寝ていた私は救急隊員の「病院に着きましたよ」との掛け声、シャッターの閉まる音で目が覚めました。それと同時に救急車の裏ドアが開きました。寝ていた私は裏ドアが開き、そこから入ってくる蛍光灯の光で目が眩みました。救急車の車内が狭く、救急車から降りる際、躓いて転びそうになり、救急隊員が体を支えてくれました。

救急車から降りると、紫色の服を着た人たちが、十人前後立っていました。メガネをかけていなかった私はその方々が誰だったのかはわかりません。しかし、希望していた病院(注・本人は救急隊員に、御茶ノ水の順天堂大学付属病院に行きたいと告げていた)、そして普段通っている病院ではない事をすぐに把握しました。

私が違和感を覚えると同時に、すぐに紫色の服を着た十人前後のうちの一人が「診察室はこちらですよ」と大声で話しかけて来ました。私は「はい」と言い、指示通りの方向へ向かうと、私の後ろから列を成すように紫色の服を着た方々がついて来ました。



被告医師・黒崎信也

指示された診察室に入ると、大柄でニヤニヤしている被告黒崎信也(仮名)が椅子に座っていました。私の背後からは興奮気味の鼻息が聞こえ、人の気配がありました。

黒崎は、明らかに今まで通った耳鼻科の医師らとは違い、「真剣さ」等が感じられず、とても医師とは思えない態度でした。

私は、黒崎に「ここ何処?」と聞くと、笑いながら「精神科!」と私に言ってきました。

「は? こっちは耳鼻科に行く必要があるんですよ」と私は言い、「帰る!」と席を立つと、黒崎医師は「おおっと、ちょっと待ったー」と言って笑い、すると紫色の服を着て背後に立っていた男たちが私の進路をふさぎました。黒崎は「ほら、席に座って、座って」と私に言いました。

黒崎 「名前は?」

私 「○○○○」(もちろん本名)

黒崎 「生年月日は?」

私 「昭和57年7月25日、1981年」

黒崎 「普段飲んでいる薬は?」

私 「ボルタレン」(注・これは耳鼻科で処方されていた痛み止め)



こんな会話をした後、黒崎信也はすでに出来上がっているカルテを確認していました。時間にして数秒くらいです。黒崎が、その出来上がっているカルテを確認している姿を見た私は、カルテに顔を近づけて、黒崎に「何、これ?」と言うと、彼は私を手で「シッシッ」とやり――



ちなみにこの日、ヘンリーさんが見たカルテには、以下のような記述がなされていた。

疾病名 (主)統合失調症(治療上抗てんかん薬投与が不可欠)

     薬剤性パーキンソンニズム

     便秘症

主たる精神障害  薬物中毒


「――突然後ろを向いて、大きい注射器を持ち出し、「はい、手を出してー」と笑いながら言いました。注射器の大きさ、中に入っている薬品の量が異常に多く、驚いた私は「何で手を出さないといけないんだよ!」と言いました。

 すると、左後ろに立っていた紫色の服を着た男が突然、「先生の言う通りにすればいいんだよ!」と私を叱責しました。

私が席を立とうとすると、今度は真後ろに居た男が私に襲うように覆いかぶさってきました。それと同時に私の左後方に居た男が私の左腕をつかみました。突然、襲われた私は思わず「テメーら、何するんだよー!!!」と必死に抵抗をしていました。

そうすると、黒崎信也は「ほーら、他の所に刺さっちゃうよー」とニヤニヤしながら言いました。私は必死に「騙されて連れて来られてんじゃねーか!」、「耳鼻科に行く必要があんだよ!」、そして「(救急搬送に同乗して来た母親の事について、警察官や保健所職員に言ったように)あの母親が自作自演してんじゃねーか!」と訴えました。

黒崎信也は、私が看護師らから襲われている間、終始笑顔で、口先を尖らせて、私から情報を集めるようにして、注射器をもてあそんでいるようでした。私の後ろから腕で首を絞めて抵抗出来ないようにしていた看護師が、私の首を更に絞めるように「フーン」と力んだ際に出る声が聞こえ、私は「こいつら、マジだ……」と受け止めました。

紫色の服を着た男たちに突然襲い掛かられ、抵抗をしていた私は頭の中で、警察の人たちが以前常に言っていた「(兄を訴えたことや今ままでの経緯などから)状況が状況だけに、どんな事があっても手を出したり、暴力はするな」との言葉を思い出していました。そして、「何か私の身に起これば証言をしてくれる多くの人がいる」と信じ、最後に「テメーら、まとめて覚えておけよ!」と言い放って看護師らへの抵抗を止め、身を委ねました。

当時、すでに複数の保健所や警察に両親からの被害などについて、事実確認の緊急連絡が取れる状況でしたが、黒崎信也や医療法人社団○仁病院の看護師らは、その時間さえ与えないほど突然に襲って来たのでした。(注・その後、注射をされ、彼は意識を失った。)
                         (2へつづく)