8月18日看護記録

8時 「ここはどこだ?」

 昨日の他患とのトラブルの件問うが、覚えていないと。

10時 壁に耳を当てて、何かに聞き入っている様子あり。

 Nsが退室すると「行かないでくれ、おい」と叫んでいる。さみしいのか。

 発汗著明。



8月19日看護記録

深夜 ドアをどんどん叩く。Nsがドアを開けたすきに廊下に出てしまう。外出要求強い。

12時20分 休憩室に出してとドアの前に立ち、帰宅要求強い。離院しようとするが、勢いはない。

「ここは自由がない、部屋にかぎはかかるし……仕事にいかなきゃいけないのに、ここにいる必要はない」

 腹痛に効くからと説明し、アナテンゾールデポ2V筋注

17時 610号室内をウロウロしている。時々、ドンドンとドアを叩く。声かけして、表情の険しさはない。

19時30分 ドンドン激しいが、訪室すると穏やか。

 「電話をかけに行かないと。明朝8時に仕事に行かないといけないから。家に帰って……」などボソボソと喋っている。



同日の医師の記録

離院行動あり。強行的ではないが、徐々にそうなりつつある様子

「仕事があるんだから」等言い、笑顔も時折見られる様子だが、表情は険しいことも多く、危険な様子

 本日、Anatenzol depot(アナテンゾール デポ) 2vial 筋注


 

 帰宅要求が出た途端、またしてもアナテンゾール筋注である。

 しかし、その後も慎吾さんの「帰宅要求」は続く。仕事をしなければ……、こんなところは嫌なんだよ……回らない呂律で必死に訴えている。

 そして、21日には、配膳車が病棟の外に出る時に一緒に出てしまう。Nsとドクターに抑えられるが、それを振り払い、エレベーターに乗ろうとし、両脇を強くつかまれると、あきらめた様子で病棟に戻っていった。610号室に入室。そして施錠されると、ドアをドンドンと叩いている。



8月22日看護記録

16時 610号室施錠すると、すぐにドアを叩く。

「何でうそばかりつくんだ。どうしておれの時間と自由を束縛するんだ」最初は口調荒い感じあるも、話しているうちに穏やかになる。

16時20分 再び610号室施錠する。ドアをドンドン叩いている。「おれだって頭にくるんだ」

 しばらく施錠せず様子を見る。出入口のドアの前に立ち、ガチャガチャやっている。○○Drに帰宅要求をしつこくしている。

 夕食まったく手をつけず。



同日の医師の記録

家に外出させてほしい。仕事のほうがたいへんなことになっている等、要求強い。言い方は穏やかだが、強硬。おさえるのは難しい



 そして、8月24日には父親と妻が面会にやってきて、二人のドクターを交えて面談が行われた。

8月24日医師の記録

父、配偶者、Dr△△、○○

 本人、病識ない。離院要求強い。易怒的になる。家に帰せと脅す。薬で抑えている状態。

 いつまでたってもこのままではらちが明かない。

躁のほうはおさまっている

ECTによる記憶の欠落などからくる不安感が強く、離院要求となってあらわれている。本人に、薬を減量し(身体にきていたため)、外泊をしながら退院にもっていきたい旨、話したいと(家族に)相談。了承。本人を呼んで、その旨を話す。

夕方から、Barnetil 中止。

 27~28日、1泊の外泊。



8月24日医師の記録

昨日の相談でわりと具体的なスケジュールが決まったためか、本人は物わかりよく、おとなしい

Tolopelon 27→18㎎に減量

28~29日、外泊



8月30日医師の記録

外泊は、家人の話では、穏やかで楽しそうにしていたとのこと。易怒的になったりなど、問題となるようなことはなかった。


ロールシャッハ

刺激に対して一呼吸置いたような反応。薬のせいか? まだ不活発。

色彩に対する反応、強い。感情がまだコントロールできていない。

内容は退行的、子供っぽい。




9月1日医師の記録

頭はずいぶんすっきりしてきた。本人は「完璧」と言っている。

5~7月までの記憶が欠落しているとのこと。穏やか。


 

 その後カルテの記載はなく、ただ箇条書き程度に、9月に入ってからも外泊が3回行われたことが記され、ようやく、9月13日、慎吾さんは退院となった。7月4日の強制入院からおよそ70日間の入院生活である。



 それにしても、こうして記録を丹念に見ていくとよくわかるが、慎吾さんの何が「治った」というのだろう。「躁のほうはおさまっている」とあるが、慎吾さんが要求しているのは、最初から最後まで「家に帰りたい」というただ一点である。

とすれば、ECT施行前の「帰宅要求」は躁のせいで、施行後の「帰宅要求」は記憶の欠落による不安感のせいということか?(としたら後者は「治療」がもたらした状態である。)



家に帰りたいと言えば言うほど、それを「病気」ととらえられ、薬物や電気ショック療法を加えられ続けているが、それでも慎吾さんの「帰宅要求」が弱まることはなく、結局、状態が安定したのは、帰宅が可能となってからだ。

 こうした「治療」の流れを、どう考えればいいのだろう。

 医師は慎吾さんの要求を「おさえるのは難しい」と書きながら、2日後には「外泊」を許可している。「このままではらちが明かない」とは、つまり、もう医療的にできることはないので家族で何とかしてくださいという敗北宣言か。

それにしても、医療で良くすることができないので、家に帰したが、最初から要求していた「帰宅」が叶ったとたん、穏やかになるというのは、ごく普通の人間の反応と言えないだろうか。



 現在の奥さんである千鶴子さんは、「もともとこの人は、こういう性格の人」と言う。

 この入院からすでに17年経っているが、今でも時には激することがあるし、夫婦喧嘩をすれば大きな声も出す。それを「病気」とされたなら、「この人は今でも病気ということになるが、「病的」な感じはまったくなく、私は単にこの人の性格だと受け止めている」と。

 としたら、この入院はいったい何のための入院だったのか?

 再婚後、千鶴子さんは慎吾さんから細かく話を聞きだしたが、いまだに記憶の欠落があるため、はっきりしない部分があり、思いきってカルテ開示に踏み切ったのである。

 それを見て、一番驚いたのは、慎吾さん自身だ。本人はECTをされたのは2回ほどだったと思っていたそうだ。また、なぜ医療保護入院となったのか、わからないままだったが、そこには何らかの企みが潜んでいたこと――家族の問題、お金の問題――を理解した。

 退院後も慎吾さんは通院を続けたが、そのカルテの開示もされている。

 次回は、その経過を見ていこうと思う。              (つづく)