(1からのつづき)

失ったもの……離婚

 じつはS子さんは、最初の会社の先輩だった男性と2007年の2月に結婚している。会社を辞めたのがその前年の9月で、その後ずっと薬を飲み続けていたから、結婚生活は服薬を続けながらの生活である。

「朝起きれば、泣いているし、手首は切るし、いつも死にたい死にたいと言っているし。相手は泣きながら死なないでほしいと何度も言いました。すごく悲しい思いをさせたと思います。でも、もうどうにもならなくて、それで3ヵ月ほど二人でじっくり話し合って、結局、別れることになりました」

 2010年2月に離婚したから、ちょうど3年間の結婚生活だった。決して憎しみ合っての離婚ではなく、離婚後も元ご主人はS子さんの状態を心配し続けてくれた。

 しかし、離婚後は再び一人暮らしとなった。そして、死にたいという気持ちはますます強くなっていった。

 S子さんとしては、明らかな自殺として世間の注目を浴びるようなことはしたくなかった。周囲の人に迷惑がかかる、辛い思いをさせてしまう……まだそれくらいの理性は残っていたのだ。

 そこで実行したのは、食べるのを止めることだった。空腹感などまったく感じず、料理をする気力もないため、このままじっとしていれば自然に死に近づくように思えたのだ。

 2日で普通の人が食べる一食分くらいしか口にしなかった。

 それでも、食べる物を考えるときには、なぜか栄養のバランスを考えてしまう。鶏肉、豆腐、もやし……。

「頭は死にたいと思っていても、体は生きたい、生きたいと思っていたのかもしれません」

 そんな生活が昨年の6月くらいから始まった。そして、7月8月9月……。


 それでも、S子さんの中で「音楽」だけは生きていたようだった。小さいころからピアノを習っていたため、音楽を聞いているときだけは、ちょとだけ生きていることを実感できたのだ。

 そうしたなか、その年の3月にライブハウスに足を運び、あるミュージシャンと親しくなった。死にたい死にたい……その一方で、ライブハウスに通うことで、S子さんは何とか生き延びていたのだろう。

「ミュージシャンは大分の人でした。それで、知りあって半年後の10月に、突然思い立って1人で大分まで行ってしまったんです。死のうと思ってろくに食べてない時期で、かなりボロボロだったのに、そんな私をドライブに連れていってくれたりして……それで、私、まだ死にたくないなとぼんやりした頭で思いました。生きる気力もないようなこんな私に、みんながまたおいでって言ってくれて。健康になりたいって、そのとき心から思ったんです。そうでなければ、この人たちにまた会えないって」




断薬の決意

 健康になろうと思ったとき、S子さんはふと「今飲んでいる薬がおかしいのではないか?」という疑いの気持ちを抱いたと言う。

 また、薬が切れ始めると動悸や不整脈を伴う焦燥感が出て、飲むと消えた。そもそも自分はそんな症状で病院通い始めたのか? これって本当に元々の病気? そんな思いはかなり以前から抱いていた。

そこで、ネットで薬の副作用について本格的に調べてみたところ、出るは出るは。それまでもネットで薬について調べて多少のことは知っていたが、本格的に検索してみて、

「私、完全な依存症じゃんて思いました。そして、やめなきゃ、死んでしまうと」

 ずっと通っていたメンタルクリニックの医師に減薬の相談をすると、「いいですよ」という軽い返事。しかし、特に減薬のスケジュールを指導してくれるわけでもなく、S子さんは自己判断で去年の11月から減薬を開始した。

 その頃飲んでいたのは、レキソタン12㎎とリボトリール2㎎。まずはレキソタンの減薬から始めて、自分のペースで、5㎎減らして2週間、また5㎎減らして2週間、そして残りの2㎎を2週間――1ヵ月半でレキソタンを断薬した。

もちろん離脱症状はあったが、それよりも体が楽になっていくのが実感できた。以前のような正体不明の苦しさは軽減され、「感情」のようなものも蘇ってきた。

 そこで、今度はリボトリールの減薬、というより、S子さんは2㎎を一気に断薬へともっていった。

 しかし、数日後、不眠が出た。さらには動悸、耳鳴り、しびれ、全身の筋肉の緊張、手の震え、呼吸困難、幻聴、頻脈、その他壮絶な離脱症状が一気に出てきた。

出社したものの、ドアさえ開けることができず、階段も降りられない……。社内では、薬による影響で「いま自分は禁断症状に苦しんでいる」と正直に伝えてあったので、周囲の理解は得ることができていた。

それでも心配した仲間から「病院へ行ったほうがいいのでは」と言われたが、冗談ではない。こんな状態で病院へ行ったら、また薬を飲まされるだけだと思い、S子さんはタクシーで帰宅した。

 そして主治医に電話を入れ、「離脱症状が出ましたが、薬をやめて良いと言ったのはどのような根拠ですか」と息も絶え絶えな状態で尋ねると、「あなたがやめたいと言ったのでそれを止めることはできません」という返事。徐々に減らしていくべきことも伝えず、では2㎎なら一気に断薬してもいいのかと重ねて問うと、「頓服ならそういうやり方もある」と言う。しかし、S子さんは頓服の服用ではない。しかも、その前に「依存も離脱もまったくない薬だ」と医師は断言していたのである。

 この医師は当てにならない。




離脱を理解してくれるクリニック

S子さんはその医師に見切りをつけると、ネットで何軒かのメンタルクリニックを探し、片端から電話をかけていった。しかし、どこも「離脱? 何言ってるんですか?」といった反応ばかり。その中で、ようやく一件、離脱症状について話が通じたクリニックがあり、S子さんは受診することにした。

 そこは漢方の助けを借りながら、向精神薬の減薬、断薬を目指し、最終的には漢方薬もなくすことを目標に掲げるクリニックである。

 S子さんの場合、リボトリール2㎎を一気に断薬して失敗しているので、とりあえず1㎎に戻し、そこから3週間ごとに0.125㎎ずつ減薬していくことになった。


 会社で倒れて、以後半月ほど休んだが、断薬を実行しながらも復帰した。

 そして、完全断薬したのはつい最近、4月下旬のことである。

 まだ大量の寝汗や首の突っ張り、目の焦点が合わない、顔の感覚の麻痺、そして、不整脈という症状が残っている。

 とくに不整脈は、例えばテーブルなどに胸を押しつけていると自分の不整脈でビクンとして驚くことがあるほどで、心電図をとったところ不整脈が確認されている。しかし、治療のために処方される薬はといえば、結局、「レキソタンなどその方面の薬」と言われ、今は心臓のための治療薬は飲んでいない。



 4年半、いや最初の受診から数えたら8年間飲んでいた向精神薬を完全にやめて、数週間である。

 しかし、飲み続けていた間に失っていた「感情」は戻りつつある。

 辛いことも感じなくさせる代わりに、楽しいことも感じなくさせてしまう薬。低空飛行の感情のまま、生きているのか死んでいるのかわからないような日々。生きる喜びを奪う薬。

「もしかしたら、薬を飲んでいなくても、離婚することになっていたかもしれません。でも、やはり薬の影響は大きかった。ずっと抜け殻みたいで、何もかもがどうでもよく、一緒にいても楽しいという感覚になることができませんでした。相手にはすごく辛い思いをさせてしまったと思います。だから、せめて私が元気になることで、それでしか償うことはできないと思っています」




死なないでほしい

 薬で苦しんでいるとき、S子さんはいくつかの電話相談も利用したが、あまり助けにはならなかったと言う。もともと母親との関係がうまくいっていないという背景もあり、自殺予防のための電話相談で、年配の女性にいろいろ話を聞いてもらったこともあるにはあったが。

 また通っていたクリニックでは認知行動療法も行っていて試みたこともあったが、薬を飲んでいる状態ではまったく意味がないと感じた。認知の歪みを認識するというレベルではないからだ。


 4年間、薬によって死んでいた脳味噌を返してほしいと思うこともある。25歳から29歳。人生において何かしらの土台を作らなければならない時期を奪われてしまった。その間の記憶も曖昧で、自分がどういう人間かわからない。

「離婚も経験して、今はゼロからのスタートと思っています。いろいろなものを失って、あまりに失いすぎて、軽くなりすぎて驚いています。だから、私のような経験をする人が一人でも二人でも減ってくれればと思うんです。

 今、薬の副作用、離脱症状に苦しんでいる人、死なないでほしい。あきらめないでって言いたいです。

薬が死ね死ねって言っているけれど、それはあなたが死にたいわけじゃないんだって。離脱症状のようなあんな状態で死んだって、周りの人は、治療の甲斐もなく……そう思うだけです。それが一番悔しいです。離脱は辛くても、いつかは楽になる、だから、なんとか生きてほしい。

今回の震災をきっかけに、そんなふうに思うようになりました。私のこんな体験談でも公にすることによって、救われる人がいるのなら、どんどん出してって思います」



S子さんの場合、人への関心を奪った薬は、人への関心がよみがえったことによって、止めることができたとい言ってもいい。

そして、その思いは今も続いている。



離脱症状のようなあんな状態で、死なないで。私も心からそう思います。





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