なぜ、薬を飲み続けてしまうのか?

 私がこの問題に取り組んだとき、いつも頭の片隅にあった思いです。

 もちろん、今では、大勢の体験談を聞くことで、その理由が私なりに理解できていると思います。が、世間一般の人たちには、その「なぜ?」がおよそ理解不能なのではないでしょうか。

 そして、まさにそのことがこの問題に対する理解や共感を世間から遠ざけている一つの原因だと思います。



 飲み続けた結果、症状がどんどん悪くなっているのをわかっていながら、さらに薬を飲み続けてしまうのはなぜなのか?



 一つには、情報がないからでしょう。

 精神薬のリスクについて医師はほとんど説明しません。まさか、薬のせいでこのような状態になっているとは想像もしないまま飲み続けてしまう。

 また、「薬は病気を治してくれる」という思い(医師の説明)から、病気を治すためひたすら真面目に、処方された通りに服薬を続けてしまう。

 さらに、薬の副作用によって判断能力が落ち、薬を飲み続けることの是非を考えることさえできない状態にされてしまっている。

 そして、いつしか依存が形成され、飲まないと不安になったり、離脱症状が出るために、やめるにやめられなくなっている……。



 まだまだ理由はあると思いますが、しかし、いずれにしろ、こうしたことを世間の人が認識しているとはとても思えません。

 マスコミの取り上げ方などを見てもそれは明らかです。

多剤大量処方の問題を取り上げながら、その底に流れているのは「薬物乱用」といった視点です。

しかし、実際被害にあわれた方で、私の知る限り「乱用者」はいません。

たとえオーバードーズをしたとしても、私はそれを「乱用」とは考えません。「乱用」とは使う側の意志が反映されたものとの認識に立てば、ODは患者の意志とはあまり関係のないものだと思います。もちろん、薬に「逃げる」という意志は働いているでしょう。しかし、そこまで追い詰めたのは、やはり薬なのではないでしょうか。

問題は「乱用」ではなく「乱処方」にあるはずです。

にもかかわらず、「乱用」という言葉によって、問題の本質をすり替えてしまっている。

 そして、当然のことながら、それを見ている「世間」の反応はといえば、「乱用」する方が悪い、自己責任の問題であるとして、一種、麻薬中毒者を見るような眼差しになりがちです。

 これでは、被害者は薬害にとどまらず、二次、三次被害にあうのが落ちです。だから、声を挙げようとする人が少ないのです。



 この薬害を当事者でない人が知ったとき、素直に薬の怖さを口にする人もいますが、中には、「飲んだのは患者自身なのだから、患者にも非があるはずだ」という感想を持つ人もいます。

「いくら医者に出されたからといって、何十錠も薬を飲むなんておかしいと思わないのか?」

「そこには何か患者にとってメリットがあるからではないのか?」

「ヤク中だから……」

 こうした誤解(偏見)が大きな壁となり、いくら訴えても世間の理解を得にくくしているのは事実です。

あるいは積極的な批判はしないまでも、ごく一般的な論理に照らし合わせて判断し、結局、どうして? なぜ? の疑問が先に立って、共感を得るのは非常に困難ということになります。



 先日、ブログで知り合った方からメールをいただき、なるほどと思いました。

この方は以前、私のブログに登場してくれた女性ですが、薬害に関して雑誌の取材を受けられたそうです。しかし、記者に自分の体験をいくら話しても、どこか「伝わっていない」と感じ、あとでいろいろ考えて、次のようなメールを送ったそうです。



心理的な支配と圧迫について

 取材を受けていて気付きましたが、お二人はもっと、○○メンの医者が患者に「怒鳴り散らす」、「無診療で薬だけ出す」、「適当な診断をする」というような、明らかな行動をしている証拠を期待されていたようですね。私の話を聞いて、拍子抜けされたかもしれません。

しかし、問題の根の深さは正にそこにあります。

例えば、私は医師に「会社や家族に治療のことを話した方がよいか」と聞いたのですが、医師の答えはこうでした。

「え!? どうして!? そんな必要があるの!?

 これは単純に、理由をきいているのではありません。言葉の裏には、「当然そんなことはしないものだ。そんなことをしようとするなんて、君はおかしい」というニュアンスがこめられています。

 同時に、これで医師-患者という上下関係のある二者間に、他人が入ることを防いでいます。

これは、パワーハラスメントの加害者、DVの加害者、児童虐待の加害者などに共通してみられる手口です。

部下、配偶者、子どもなどの弱者を心理的に支配し、被害者が「何かおかしい」と感じたことを、他人への相談を通じて裏付けされるのを防いでいます。

被害者は、たいてい職や金銭、患者は治療、子どもなら生きるすべのほとんどを、加害者に握られています。

また、「私はちゃんと効く薬を処方している。それなのに治らないのは、あなたがちゃんと治療を受ける気がないからだ」ということも、私はたびたび言われました。

これも同じです。問題はすべてあなたの側にある、と自信をもって断言することで、その人の判断力をそぎ、無力にさせます。

「私は正しい、あなたが間違い」という態度をずっと相手にとり続けられると、人間は自分が正しくても「自分が間違っているかも……?」と思うようになります。まして、医学的に素人である患者、上司よりキャリアのない部下、子どもなどはそのような状態になりやすいです。

 このような巧妙なやり口は、表から見えづらいです。


お二人は健康な成人男性なので、このような扱いを受けたことがあまりないかもしれません。

たいていの男性は、DV の被害者に対して「なぜ逃げないんだ」という疑問を持ちます。いじめられていた中学生が自殺し、「なぜ転校したり、先生に相談したりしないんだ」といいます。

それは、「相手が間違っていて、自分は逃げる価値も権利もあるのだ」ということを考えないようにさせられているからです。長期的に、権力や社会的地位を利用して、萎縮させられ、意志を奪われているからです。

これはある意味、殴られて骨が折れたなどのわかりやすい「暴力」より、巧妙で卑劣な「暴力」です。

このことがピンと来ないかもしれません。でも、いちばん重要な点です。これを伝えないと、読者の人も「なぜそんなに薬を出されて飲んじゃうの?」「別の病院行けば? このひと馬鹿じゃないの?」で終わってしまう可能性があります(実際、私の話を鼻で笑う人は皆そうでした)。



 ここには精神医療というものの一つの真実があるように思います。

精神医療(精神科医)の巧妙な手口、患者を支配するそのやり方、人間心理の裏に潜む力の構図、そうしたことは「普通に」暮らしている人々にはなかなか理解しにくいものです。

そして、薬害という問題も、こうした精神医療が内蔵する根本問題を抜きにしては、語れないと思います。ただ単純に薬害を訴えても、世間の誤解、偏見に押し返され、結局、いかなる解決にも向かわない……。薬害と一口に言っても、その根は深く、陰湿で、計り知れないものを内包しているのではないでしょうか。薬そのものが持つ人間支配の効能と、精神医療そのものが持つ人間支配という思想――。

みなさんはどう考えますか?