東日本巨大地震による被災者の「心のケア」が叫ばれている。

家を失い、家族を失い、友人を失い、思い出を失い、仕事を失い……わが身ひとつであのような惨状のなかに取り残されて、被災者の精神状態はまさに極限状況にあるだろう。

そうした現場に精神科医が入り、「心のケア」に当たっているという。

昨日見たNHKの番組では、1人の男性心療内科医がある老婆を診ていた。

彼女は行方不明の息子を探し続けている。しかし、もう生きてはいまい。「自分が殺したようなもんだ」

老母は生き残った自分を責め続けている。

「自分が殺したようなもんだ」という老母の泣きながらの訴えに、

「そんなふうに思わなくていい」

 医師は彼女の肩に手を置き、老婆を慰めようと必死の様子だ。

 そして、別れ際にひと言――。

「じゃあ、おクスリ出しておくからね~」


 出された薬は何だろう? やはりベンゾジアゼピン系だろうなと私は一人考える。


岩手日報(3月21日 web版)

http://www.iwate-np.co.jp/hisaichi/h201103/h1103212.html

では、次のように伝えている。


救護所には1日約80人が訪れる。19日から診療に当たる北海道・栗山赤十字病院の佐々木紀幸医師(40)は「震災によるストレスがきっかけで不眠や頭痛、皮膚疾患の悪化などさまざまな症状を訴える人が出ている」と話す。睡眠導入剤や精神安定剤などが必要な人もいるという。 

災害後1~6週間は徐々にこらえていた感情が湧き出す時期。被災体験がふとよみがえったり、悪夢のせいで不眠や頭痛などを訴える人が増えてくる。

日赤の救護班は県内で13チーム(20日現在)が被災者の診療をしながら、心のケアに当たっている。」


こうした支援を受け入れる自治体、あるいは被災者自身の側には、支援をありがたいと受け止める空気がある。おそらくマスコミや世間一般の人たちも、「心のケア」を行うことの重要性をわかったつもりで、精神科医の活動を歓迎するむきがほとんどだろう。

しかし、そうした人たちは、向精神薬がどのようなものであるか、あまりよく知らない。ただイメージとしてだけ、「心のケア」をしてくれる「専門家」がやってきたことになんとなく安堵している。

まるで流行り文句のように、「心のケア」をとなえる風潮は、しかし、私にはなにかうそ寒く感じられる。


たしかに、あのような過酷な体験をし、そのうえ避難所生活によるストレスで不眠を訴える人は大勢いるだろう。そんなとき、薬によって一晩ぐっすり眠ることができたなら、翌日には多少の活力が湧いてくることを否定はしない。

しかし、薬にできるのは、それだけのことだと私は思う。

その薬を毎日飲んだからといって、毎日ぐっすり眠れるとは思えない。飲み続けることによって、精神的に元気になっていくとも思えない。

肉親を亡くして、家を流され、誰だって精神的に普通ではなくなる。不安になり、絶望感にさいなまれて、「それじゃあ、薬出しておくからね」と睡眠導入剤や精神安定剤を出すことが、はたして「心のケア」だろうか。


 被災者に限らず、人間にはさまざまな運命がある。その運命は、最終的には個人個人が引き受けざるを得ないものだ。薬はその引き受ける心を決して育ててはくれない。それどころか、のちのち何倍にもなってつけを払わされることになる。

 薬で悲しみを消すことはできないのだ。いや、薬によって一時的に悲しみを感じなくすることはできるかもしれないが、それは根本的な解決には決してならない。

薬で物事の受け止め方を変えることはできないし、己の性格、生き方を変えることはできない、と私は思う。

 以前、私の元に寄せられた体験談に、親を亡くしたとき、薬のせいで感情を失っていたせいか、泣くことさえできなかった、そのことで今でもなんともやりきれない気持ちになるという人がいた。

 悲しいときは悲しむのが人間として自然なのだ。それを薬で無理やり抑えつけるのは、悲しみが消化不良のままいつまでも残り続けることにもなりかねない。


「心のケア」が必要ではない、とは言っていない。しかし、「心のケア」に薬はほとんど力を持たないと思う。

しかも、幼い心にこの震災が残した傷跡、親を亡くした子供の「心のケア」が急務だという。

 現地に入っている精神科医はそうした子供たちにも薬を配るのだろうか。

考えただけで、ひどく暗い気持ちになる。

今はただ、「心のケア」という言葉が、単なる薬のばらまきの免罪符にならないことを祈るばかりだ。