今日はクリスマス・イヴです。
このブログを始めて約半年がたちました。
改めて言うまでもないことですが、これまで寄せられた被害報告は、私がこの問題に取り組む上での基本、礎になっています。
多くの被害、さまざまなケースを聞かせていただき、では、どうすればいいのか? という点になると、残念ながら(本当に悔しい限りですが)、なすすべもなしというのが現状です。
どう見てもおかしな処方(ある精神科医がブログ内でよく使っている言葉を借りれば、多剤大量殺人処方)によって人生の大事な時間を奪われてしまった人、今も奪われ続けている人、大きな健康被害の中、日々の生活にさえ難渋し、未来への夢も希望も持てずにいる人、苦しみ、焦り、絶望し……
それらが向精神薬がもたらした結果であるというこの事実は、そして、この事実が放置されているというもう一つの事実は、私に「なぜ?」という大きな疑問と憤りを抱かせるものでした。
治りたいがために通った病院で、医師によって処方された薬を飲んで、治るどころか、取り返しのつかないような被害を受け、しかも、被害を被害として認めてさえもらえない。
処方した医師は自分の蒔いた種の後始末もできず、国、そして製薬会社は加害者であるばかりかその被害者を見捨て、被害者は法的に訴えることもかなわず、世間の無理解、偏見のなか、孤立無援の状態に置かれています。
こんな馬鹿なことはない。
あっていいはずがありません。
「なぜ?」から始まった答え探しの結果、わかったことは、なんという出鱈目が科学という顔をしてまかり通っているかということでした。
診断のいい加減さ、検査なし、除外診断なし、エビデンスのない治療、抗うつ薬の嘘、医師の勉強不足、多剤大量処方etc.
しかし、考えてみれば、精神医療の成り立ちは、そもそもが精神に異常をきたした人間をいかに大人しくさせておくか、それが大きな柱のひとつだったのです。つまり、社会の安全装置としての「精神医療」です。根本にそうした思想を持つ分野において、それを担う医師がどのような態度で患者に臨むか、それは容易に想像できます。
ある精神科医のブログの中に、難治性の患者さんの治療における精神科医の苦悩について書かれていました。
しかし、「苦悩」と書きながら、この医師は、「油断をすると多剤大量処方になりかねない」と平気で書き、また「看護師側のニーズもあって」多剤大量処方になる場合もあると書いています。
つまり彼の言う「苦悩」とは、いかに油断をしないでいられるか自身を保つための「苦悩」であり、組織の中における自分の立ち位置における「苦悩」にすぎないのです。
私はこの文章を読んだとき、この精神科医の視野の狭さと、大いなる思い上がりを感じました。本来医師が抱くべき「苦悩」とは患者さんを治そうと悪戦苦闘するその「苦悩」でなければならないはずです。
にもかかわらず、彼(ら)が抱くのは、精神医療のDNAに組み込まれた社会の安全装置(制圧者)という立場から得られる奇妙にゆがんだ優越感のようなものです。
私は、現在のこのような被害を生みだした原因のひとつは、そこにあると考えています。
もちろん、向精神薬の「商品」としての不完全さが、この薬害を生みだした大元です。治験におけるルール違反の数々――抗うつ薬の出鱈目さ加減。そして、病気を作り出し、売り込むことによって、薬のニーズを拡大していった製薬会社の戦略。
どれもこれも、患者の立場に立ったものではありません。
患者は出鱈目であるだけでなく非常に危険な「商品」を「専門家」から売りつけられ、メリットどころか非常なデメリットを被っているにもかかわらず、どこからもそのデメリットを補てんされないまま、自身の責任、経済力のなかで補てん、回復を図らねばならないのです。
この点だけを見ても、精神医療はすでに崩壊していると言わざるをえません。
19世紀にはモルヒネやヘロイン、コカインも精神科の治療薬でした。それらが今どのような扱いになっているかはご存知の通りです。
ならば、現在処方されている多くの向精神薬も同じ道をたどることになるかもしれません。
「そういえば、昔は、こんな危険なものまで、治療薬として、一般の人々に処方されていた時代があったのだ」と、現在私たちがモルヒネなどを眺めるときに感じる感慨を、抱くようになる時がきっと来るはずです。
薬は必要、なぜ、薬を否定するのか、あなたのブログを読んでいると胸が悪くなる。
何と言われようとも、私はこの被害から目をそらすつもりはありません。なぜなら、被害は現に存在し、それは動かし難い事実だからです。この被害を前にして、いかなる弁明も通用しないのです。
そして、今、できることは、「おかしいことをおかしいと言い続けること」だと感じています。
それに必要なのは、訴え続ける根気と、ある種の方法論です。
黙っていたら、被害そのものさえ、なかったことになりかねません。薬や精神医療を取り巻く大きな構図の中に飲み込まれ、人知れず被害を蒙り、人知れず苦しんだまま、何もかもが終わっていいはずがないのです。
私が被害の報告を受けるときに大事にしたいのは、報告をするに至るまでの被害者の方の痛切なまでの心情です。どれほどの苦しみ、絶望の中から、被害の言葉を綴り、送ってくれたのか、それを思うと胸の痛みと共に、武者ぶるいのようなものも感じます。
そして、国は、被害者のその涙の量が器から溢れるほどになったとき、ようやく重い腰をあげるのかもしれません。あとどれほどの涙が流れればいいのでしょうか。あとどれくらいの被害が出れば、訴える数が増えれば、社会は、国は気づいてくれるのでしょう。
薬物の危険性が周知の事実となること。そのときに、被害者の声も多少は報われ、何らかの道が開かれるかもしれません。
それには、まず、おかしいことをおかしいと言い続けること。
それこそが、解決へ導く糸口となり、その持続するエネルギーが、このような恐るべき薬害を生んだ構図や社会をいつかは変える原動力になると考えています。