山桜さんが、これまで精神医療について勉強したことを発表する場がぜひほしい、ということですので、このブログ内に「山桜」の項目を設けることにしました。

 このページに私は関与しないことになっています。そうでなくても時間がないので、できれば右から左へと記事が流せれば、その際は、読みやすく、誤字脱字、変換ミスに気をつけて、と無理な注文をつけたところ、山桜さんも懸命に頑張って、原稿を書いてくれました。 

 まずは「躁うつ病」について、いくつかの原稿が届いています。

 これから少しずつ、掲載していきます。

 ただし、私に質問されても答えられないものもあります。「文責・山桜」ということで、私はほとんど手を加えておりません。みなさん、どうぞよろしくお願いいたします。




田宮二郎は躁うつ病で自殺?

 田宮二郎(たみや じろう)は、1960年代から1970年代にかけて活躍した日本の俳優・司会者。1969年、クイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会を務め、映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、加えて軽快で巧みな話術ときわめて的確な番組進行が視聴者の好感を呼んだ。




1972年になると田宮はTBSドラマ「知らない同志」でテレビドラマデビューを飾る。その後も「白いシリーズ」や「高原へいらっしゃい」などで立て続けにヒットを飛ばし、同期の映画スターに先んじてテレビ界の花形スターとしての座を獲得するまでになった。

その頃になると、「日本のハワード・ヒューズになる」と公言するようになって政財界とも接触を持つようになり、ゴルフ場やマンションの経営を行ったが失敗。1977年には日英合作映画「イエロー・ドッグ」(松竹)の製作も行ったが不入りに終わり、多くの借金を抱えてしまう。そして次第に精神を病み、同年3月には精神科医の斎藤茂太から躁鬱病と診断されて治療を始めたが、その結果は思わしくなかった。




梨元さんのコラム梨元勝「芸能事件40年」田宮二郎の巻

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77年の10月から始まった「白い荒野」(TBS)が低視聴率に終始し、そのあたりから田宮の精神は変調をきたし始めたようです。

「実は自分が打ち上げた人工衛星が今地球を回っている」とか、「皇太子殿下と直接2時間お話しした」とか誰もが信じられない荒唐無稽な話を平気でする。

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197712月に入ると、躁状態に入った田宮はあれほど入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始め、多額の債務を抱えてしまう。妻は弁護士と協議の上、偽装離婚することにより財産を守ったほどである。

田宮の事業熱が収まらないまま、ドラマ『白い巨塔』は1978326日に撮影開始。ロケーション現場の病院を自ら手配するなど、高いテンションで撮影に臨んだ。私生活は荒れ、執拗な債権取立ての中で、妻に不動産等の書類の引渡しを求めて激しく言い争うようになっていた。ドラマ撮影現場でも次第に彼の不遜な態度に対して不安が広がり、スタッフがその火消しに躍起になったという。さらには「ウラン(一説には石油だともいわれている)の採掘権を取得した」と主張して突如トンガへと一週間出かけ、あわや撮影中止になりかけることもあった。




18話まで撮影したところで撮影は1ヶ月の休暇に入り、田宮は729日にロンドンへ旅行に出発。戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに98日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。917日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転し、田宮は泣き崩れてばかりで台詞が頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は1115日に無事終了。




ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた19781228日昼過ぎ、家族と別居して1人で住んでいた港区元麻布の自宅で起床した田宮は付き人に仕出し弁当を取りに行かせた後に散弾銃で左胸をいって自殺を遂げた。43歳没。




田宮二郎の変調は、1977年だ。精神科医の斎藤茂太が躁鬱病と診断して、その治療が思わしくなく、奇行が目立つようになった。どんな薬を飲まされていたのだろうか。

阿部譲二は田宮二郎の行動を聞き、「シャブ漬け」にされたと思ったようである。




田宮二郎が薬を飲んでいなかったら、自殺をしたであろうか。彼はいつから薬を摂取し、どんな薬を飲んでいたのか、奇行の謎を解明しやすいが、薬の情報はないのでわからない。はっきりしていることは、斉藤茂太氏の診断以後から周囲にもわかる変調をきたしていることである。

                                  (by 山桜)