痴呆になる恐怖
①薬をやめると、吐き気、頭痛に襲われ、それが終わると耳鳴りがひどくなった。寝ているとジェットコースターに乗っている感じで、ベッドにしがみつかなければならなかった。
②義母が料理をしてくれというので台所に立つが、箸を持つと手が震え、何もつかむことができなかった。
③自分の名前を書こうとしたら、思い出せなかった。どうしても思い出せないので、書いてもらい、それを見ながら書いた。なぜ書けないのか、それさえもわからなくなっていた。
子どもの生年月日も思い出せなくなっていた。漢字は一つも書けなくなっていた。
④実家に電話をかけようとしたが、電話番号が思い出せない。電話帳を見ながら電話をかけようとしたが、最初の0を覚えてもボタンを押すまでの1秒間に記憶はなくなっていた。
⑤箸、ノート、椅子、そういう日常的なものの名前さえ思い出すことができなくなった。会話は「あれ」とか「これ」とかは言えたが、話と話をつなぐ単語が思い浮かばず、会話が困難になった。
言葉だけでなく、伝えたい内容が頭にあってもそれを話して伝えることができなかった。
⑥ガスをつけても忘れしまうので、何度も鍋を焦がした。魚のグリルを使うと焦げた匂いがしたが、それと魚が焦げているということがなかなか結び付かなかった。火事をだしてしまうかもしれないという心配は4年ほど続いた。
⑦車の運転は頭が朦朧として2年間はまったく乗れなかった。
⑧花を見てもきれいだとか、風が吹くと気持ちがいいとか、感動や悲しみを感じる心がなくなっていた。テレビを見てもおもしろいとか興味を感じるとか、そういう感情がマヒしていた。何も楽しく感じられないまま生きているのは苦痛であった。
⑨断薬後3年経った頃、一人で大学の同窓会に東京へ行ったが、会場に一人で行きつける自信がなく、池袋まで同級生に迎えにきてもらった。
⑩東京駅に着いたとき、トイレを探したがわからず、人に尋ねた。そして電車で池袋に行くにも掲示板を見ても池袋がどこにあるのかわからず、切符も買えないので、教えてもらった。
彼女はそうした状態を医師に告げたが、医師は「そんな副作用は聞いたことがない」と明言した。睡眠がとれていないからだと、医師はあらたにプロムワレリル尿素という睡眠薬を勧め、他の薬も出されたが、これ以上痴呆になるのが怖くて飲まなかったという。
そして歩けなくなり、急激におかしくなっていく中で、自分の死ぬのではないかと思い、自分の葬式の準備をしたそうだ。そして、家族の迷惑にならないよう、何度も自殺を試みた。
廃人
私は薬をやめたあと地獄の状態になりました。徐々に廃人になっていくなか、家族の負担を軽減するため死ななければならないと考えるようになりました。息子は毎日自殺を試みる私を心配し、学校からすぐに帰宅すると、私のそばを離れませんでした。遊ぶこともやめ、勉強もしなくなりました。
ある日息子は「自殺をしてはいけない」と言いました。私はカッとしました。そして、息子の首を絞めました。息子を殺して自分も死のうと思いました。
ずっと、子どもを残しては死ねないという思いがあり、同時に息子が憎いという感情がありました。息子が義母に似ていると感じたのです。義母は家族を仕切っていました。薬を飲み始めて疲れがあるにもかかわらず無理をして家事をこなさなければならなくなり、義母の指示を辛く思うこともありました。
義母に似た表情をした息子(当時小学4年)を憎いと感じ、首を絞めたのです。しかし、義母に対する感情で、それまで辛くはありましたが、憎いという感情ではありませんでした。
「お母さん、苦しい、やめて」
という言葉ですぐに手を離しました。しかし、それ以降、殺人者にならないよう自分との戦いが始まりました。
3年がたつ頃、天ぷらを揚げていたとき、夫が私に小言を言いました。それにカッとして、煮えたぎった油を夫に頭からかぶせたいという欲求が衝動的におき、自分を抑えるのに必死でした。
また、ある日、ガステーブルの台を掃除している時に夫に小言を言われ、金づちでガステーブルを叩いてしまいました。流し台を足で蹴飛ばして、へこましてしまったこともあります。
家族が憎く、もし鎌倉時代に生きていたら、深夜家の周りを蚊帳でおおい、火をつけた矢を放ってやりたいと話したこともありました。
中学1年の息子のPTAでは、みんなが静かに体育館で説明を受けている最中、大きな声で「わーーー!」と叫びたくなりました。何も理由はないのです。そんなことをしたら、全て終わりですので、必死に自分を抑えました。
息子が中学2年の時、下級生をいじめたのではないかという部活の顧問の訪問で夫が怒り、息子の顔を殴ろうとした時、殴らせてはいけないととっさに自分の顔でさえぎり、2度顔にこぶしのパンチを受けましたが、仕返しはしませんでした。
その時、やっと山を越えたと思いました。
精神科に通院していて殺人をおこす人がいますが、今はわかります。些細なことで殺人衝動が引き起こされるのです。
これは私の遺言だと思ってください
私は教員をしていた時は、小遣いを節約して、担任の子供の学用品や衣服を買ったりもしました。できるだけ可能な努力はしたいと思っていました。贅沢もしないし、外食もほとんどしない生活でしたが、将来に夢と希望と、そして世の中の役に立ちたいと願っていました。何が趣味かというと「人を笑顔にすること」が1番で、2番目は家族においしい料理を食べさせたいということでした。忙しい時間のなか、そういったことができる、それが幸せでした。
薬を飲んでどんどん悪くなっていく私に夫は怒りを感じ、寝ていた私の頭に化粧水の瓶を2度ほど投げつけたことがあります。重みのある容器なので皮膚が2センチ、2カ所ほど切れ、枕は血だらけ、翌朝病院に行き縫うことになりました。
夫は離婚したいと泣きました。姑も離婚しろと言っています。私が働けなくなったので、経済的な損失を招いた、その損害を賠償して、家から出ていってほしいと言われ続けました。しかし、子どものこともあり、離婚を思いとどめてもらったのです。
夫は私の足や腕をよくつねるようになりました。薬局に行ったとき薬剤師が腕のアザに気づき、腕をまくったらアザだらけの腕に言葉を失っていました。
酒を飲んで荒れる夫を避け、何度も家を出ました。人気のない空き地や堤防で時間が過ぎるのをじっと待っていました。雨が降ると、寒くて、つらかった。
夫からは月に2万円しか渡されないこともあり、子どもの給食費が遅れて、つらい思いをさせました。
私は子どもの養育は思うようにできませんでした。思考力がないので、注意することも、アドバイスすることもできなかった。
2人の小・中・高校の入学式と卒業式は夫が出席しました。私は2時間椅子に座っているのが苦痛でした。
小学校の教師になり、自分の子どもを教育できることを楽しみしていただけに、つらく、残念でなりません。