泣くとか
怒るとか

そういうことって
理由があると思っていて

それは、
理由がないと泣いてはいけない

理由がなければ怒ってはいけない


と思っていたから。



さらその根本には、
泣くのも  怒るのも  わるいこと、いけないこと。

だって、みんなに迷惑かけちゃうでしょ?




そんな思いがあるからだった。



そして、
そんな自分が嫌で  恥ずかしくて  ダメだと
思っていたから。



だから
泣いてはだめ  怒ってはだめ

どうしてもというのなら
理由述べてよ。
じゃないと子供みたいよ。



こんな風に
なっていたのだった。





けど。

それってなんで?
なぜだめなの?

と考えたときにね
そう教えられた記憶があって。


それは

「泣くのははずかしい」
「怒るなんて大人気ない」
「はずかしい」
「そんなことしたって何にもならない」
「泣きつかれたって面倒臭い」
「それでどうしろって?無駄だよ」
「だからやめなさい」



そうやって
親や、先生や、友達や、彼氏とかに

言われてきた経験が
あるからだった。

もしくは、
言われてないけど
そんな空気を感じて  嫌な思いをした
とかね。


それで、

そんなふうにあからさまに
人前で感情をだすのはダメだって
そうプログラムしたんだ





泣くのがこわかった

でも少しづつ

泣いてもいいよって

自分に言えるようになった

そうしたら

その姿を
だまって見守ってくれる人ができた


けどそれにはいつも
説明できる理由があった。

「こういうことがあって
    こういう気持ちで
    私はいま悲しい」


泣きながらでも、
時間はかかっても

それを説明することができた。





今日みたいに突然
直前になんの出来事もなく

泣き出すことは

なかったかと思う。



私は理由を探ろうとする

でも
ただ
わーーーってなってしまう


そこでまず
その「泣いているわたし」を
どんな風か感じようとした。


かなしい  さみしい  さむい
冷ややかなつめたい感じ
スーっと寒気がするみたいな感じ
背中や足やお腹が冷えている
あたためてほしい
モワモワ  ソワソワ
紺色とか深緑とか濃い色みたいな感じ

よどんでいる

重い



そんなことをひとつひとつ感じていって


その感覚に
理由なんて必要だろうか?

と思った。


私はいま
「泣く」を感じている

それに
「なぜ泣いているのか?」という理由なんて

いらないんじゃないか。


ただ泣いているんだ

救いも
なんとかしてほしい
なんとかしたい
という気持ちもない

求めてない

ただ泣きたいから泣いているんだ。





ひとしきりそうやっていたら
少しづつ落ち着いていました。




ひとは、
負の感情がでると問題認識して

それを解決しようとする。


そうだよね
だって泣きたくないし
はやく楽になりたいもんね



だけど
その問題が解決できても
また同じ感情を引き起こされるできごとが起こる。


乗り越えるって
解決することじゃなくて


その
「感じている自分」を
受け止めて  認めて
よりそっていくこと  なんじゃないかと思いました。


理由、としての
現実の出来事はあるかもしれない


でもそんな「こうだから」っていう
理由はあんまり意味がなくて


「なぜそんなことがおこるのか?」
っていうこと。

原因。

その原因はね
自分で気づいてくれるときを待っていて

現実の現象をつくってみせるんだよ。


気づいてほしくて。

認めてほしくて。




泣き終わってから
そんなこと考えていると


ああ  私ってなんて、かわいい子かしら!!


と思いました。




泣くのも
怒るのも

理由はなくてもいいよ


たそれを純粋に体で
「感じて」いった先に

あらたに
気づくことがあったよ。


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寒さを感じながらサーフィンする人たち