マレーシアからおはこんばんちは。
マレーシアでの子育て、教育移住、学校選びマレーシアでの生活の参考に
*私は留学斡旋の仕事も手伝いもしていないので、忖度なく本音を書いています。
必要な人のお役に立ちますように
今回の最後の目的地に行く前に,少しマレーシアの近現代史。
イポーはかつて世界一ベンツの走っている街と呼ばれ、マレーシアを代表する多くの大富豪ファミリーを生んだ街。
その富の源は錫。
マレーシアは1900年~1980年頃まで世界最大の錫産出国でした。
錫の産出量のなんと7割以上を占めていたのがイポーのあるペラ、
それは裕福になるよね。
現在のマレー半島にある大きな湖や池はほとんどは錫の採掘場跡です。
1848年にペラで錫が大量に採れる場所が発見されると、数万人規模の中国からの移民がやってきました。その後も富や仕事を求めて移民が増え、イポーは今でも華人の多い街になりました。
(手作業だった時代の錫採集道具)
この頃のペナン、マラッカ、シンガポールにはすでに多くの中国商人達が移住しており、貿易の拠点として英国の管轄下になっていました。
産業革命で多くの錫が必要になった英国はマレーシアの錫に目を付け、1874年にペラで起こったマレー系支配層と華僑達の内乱に介入、その後ペラで植民地的支配を始めます。これがマレー半島の英国植民地支配の始まりになったと言われています。
これ以前に英国はペナンも騙して占領、またも狡猾。
その後、英国はTin Beltと呼ばれた産出量の多いペラ、スランゴール、パハン、ヌグリ・スンビランをマラヤ連合州と名付け占領します。
しばらく経つと英国主導で大規模な機械による錫採掘が始まり、マレーシアは世界一の錫の産出国となり、さらに発展していきました。
錫の輸送のために北はタイ,南はシンガポールまで道路や鉄道も整備されました。
しかし、1980年頃には錫の価格が暴落、マレーシアでも産出量も減り、マレーシアの錫産業は衰退。若者を中心に仕事を求めて、多くの華人がイポーを離れクアラルンプールやシンガポールに移住しました。
KLやシンガポールには親や親せきがイポーにいるって人が多いわけです。
太平洋戦争の際、日本軍はマレーシア中に整備された錫を輸送するための道路網を利用し、東海岸のコタバル上陸後、マレーシア各地を占領しながら目的地のシンガポールに55日という驚異の速さで到着、シンガポールを陥落しました。
(日本兵の刀)
このコタバル上陸から敗戦までがマレーシア、シンガポールの日本植民地時代です。
マレーシアの富豪達の多くを生んだのも、英国の植民地になったのも、日本軍の侵攻を助けたのもスズ。
イポーといえば富豪の街、小桂林と呼ばれる風景、もやし、ポメロ、温泉などが有名ですが、錫との関連は外せません。
最後の錫採掘場へ続きます。
お読みいただきありがとうございます。