【私の中のASD/針山の針の向きを並べ替えられ「絶望の顔」】

最近、気づいた自分のASDのほうの症状が新たに2つ見つかった。

1つは「物の配置や角度にこだわりがある」というものと、もう一つは「道順へのこだわり」である。最初、どっちの方も「自分は違う」「自分はそこにはこだわりはない」と思い込んでいた。ところが、今朝、手芸でパッチワークをする時に使う待ち針とかを刺す「針山」のことで大きなハプニングが起きた。

 

朝、目が覚めてリビングの自分の場所に行ったら、私の針山に刺さっていた全ての針とまち針が全部、自分が普段、絶対に使わない角度に入れ替えられていて、ごっちゃごちゃにされていた。お母さんが「針の本数を数えるため」に全ての針を抜き差しして並べ替えたらしい。しかもそれが私にとってどれもすごく嫌な角度で刺さっていて、パッと見るとなんだか私が最も恐れていて嫌いな蜘蛛の巣を想起させる「放射線状」に並べられていて気持ち悪かった。

 

尚且つ、私はいつも「縫い針」「刺し子針」「刺繍針」「キルトしつけ針」「キルティング針」「とじ針」「ビーズ針」をどれがどれ用の針だか分からなくなくならないように分かりやすく、「縫い針」は横に垂直に90度の角度で下の方に刺す、「刺し子針」は縦に垂直に90度の角度で刺す、「刺繍針」は中央付近に45度くらいの角度で刺す…というように全て針の位置や角度を決めていた。だってそうしないと、どれが「刺し子針」でどれが「刺繍針」でどれが「キルトしつけ針」なのかがパッと見では分からなくてごちゃごちゃになってしまうからである。私は針屋さんではないので、とりわけ「刺し子針」と「刺繍針」はどこがどう違うのか見た目だけでは皆目分からない。布に刺してみると、布への通りがやや悪くて引っかかることがあるのがおそらく「刺繍針」の方だとは思う。でも見た目では区別がつかない。どれがどの針なのかごちゃごちゃになるのが嫌でそうしていた。それを、何も分かっていないLDのお母さんが、まち針を含めて勝手に全て並べ替えてゴッチちゃんごちゃんにしてしまったのである。それも気持ちが悪いと感じる角度、蜘蛛の巣を想起される放射線状に並べ替えられた針山を見て、気持ち悪さととともに物凄いショックを受けて、1時間ほど「絶望の顔」で放心状態になってしまった。一気に創作活動への気持ちは消え、意気消沈。放心状態になって微動だに動かなくなった私の姿を見たお父さんが「おい?!大丈夫か?!お前、顔が『絶望の顔』になってるぞ」と言っていた。それだけショックが大きかった。

 

1時間後、少しずつ現実を受け止め始めて、50本くらい刺さっているまち針を含めた全ての針をいつも通りのレイアウトに並べ替えた。でもやっぱり「刺し子針」と「刺繍針」だけは区別がつかなくなってしまい、新しい針を出さない限り、もうそれはダメになってしまった。「キルトしつけ針」は針の穴がやや細めなので他の針との区別が直ぐについた。「キルティング針」は短いので分かった。縫い針は穴が小さいのですぐ分かる。ビーズ針はすごく細いのでそれもすぐにわかった。でも「刺し子針」と「刺繍針」だけ区別が分からない。しかもよりにもよって、この「刺し子針」と「刺繍針」は使う頻度が多いので、そのこともあって余計に「絶望の顔」になってしまったのである。でもこのことがきっかけで自分に「配置や角度に強いこだわり」があることが分かってきた。

 

例えば、Illustratorでデザイン制作をする時にその「こだわり」は生じる。前に作った和柄のデザインで下記のようなものがある。


私はA3サイズでこの模様を創るのに、6種類の花とその大きさのレイアウトにすごくこだわり「このサイズのこの色の桜の隣は、絶対にこの感覚で緑のこのサイズの菊」「この隣は1cmくらいの感覚をあけて絶対に赤と緑の混色の菊じゃなきゃ嫌だ」とかのこだわりが強くあって、全ての花、一つひとつを大きさと間隔の取り方にこだわって膨大な時間をかけて創った。普通は6種類の花の素材を作ったら、Illustratorの機能を使って、一気にその6種類の花をソフトが一瞬でばーっと勝手に増やしてそれを適当な配列にしてくれる機能を使う。A3サイズともなると、私のように一つひとつアナログで配置にこだわって並べる人はまずいない。でも私はソフトが一瞬で自動でばーっと6種類の花を増やして適当な配置にする機能を使うのは絶対に嫌である。サイズや配置にものすごい強いこだわりがあるし、第一、ソフトが自動で一瞬で勝手に適当に並べて「はいあっという間に出来上がり」となると、創り甲斐を感じなくて、自分が創ったという気がしなくて「ソフトに勝手に創られた」気がしてしまい、どうしてもそういうのが嫌なのである。それがASDからくる私の「配置」や「角度」へのこだわりなのだと、今朝の「針山事件」で気がついた。

 

こういう「配置」や「角度」のこだわりは、ピアノを弾く時においては「独特の間の取り方」として現れるようで、よくピアノの教授にその「独特の間の取り方」を普通の間の取り方に直されるのだが、私が普通の間の取り方でその曲を弾くと、自分でなんか「変な感覚」がして「自分が自分じゃなくなる」みたいになってとても不快だったというエピソードもある。

 

もう一つのASDからくるこだわりの症状は「決まった道じゃないとダメ」というのが私にはある。

 

昨日、自分が本当に「決まった道順へのこだわり」が強いのかどうか知るために、お母さんとお父さんに「ねえ、お母さんたちは、いつも通るお決まりの道以外の道を通る時に『なんかこの道を通るのは変な感覚がする』とか『この道はなんだか暗いイメージがしてあまり好きじゃない」とか、だからこの道順じゃないとダメとか、そういうのはある?」と聞いてみた。すると、二人とも「そういうのは全くない」とのことだった。

 

私にはそれがある。烏山病院に通う時も、行きは絶対にこの道順で、帰りは絶対にこの道順じゃないと落ち着かないというのがある。それをある時、たまたま一緒に帰ったある友達が「こっちの道を通った方が近いから、この近道を通って帰ろう」と言われて、その普段通らない「脇道」を通らないといけなくなった。その時、すんごい怖くて変な感覚がして不快な気持ちになりながら歩くことになってしまった。いくら「こっちの脇道を通った方が近い」と言われても、私は遠くなってもいつもの決まったあの道順じゃないと心が落ち着かないのである。

 

 私の家の近くには「マルエツ」と「オオゼキ」の2つのスーパーがある。マルエツのほうは徒歩78分で、オオゼキのほうは徒歩123分で行ける。私はよくマルエツのほうに頻繁に行く。それはオオゼキのほうがやや遠いからという理由ではない。オオゼキの方面のほうの道のイメージが私には「とても暗いイメージで、なんだか怖く鬼門」だからである。逆にマルエツの方面のほうの道は「明るくて開けていて楽しいイメージ」がある。どこでそういう「暗い」「明るい」の違いが生じるのかは分からないけど、私がオオゼキに買い物に行くことはめったにない。たまに無理して魚欲しさで行くことはあるけど、9割はマルエツに買い物に行く。現に今年、まだ1回もオオゼキには買い物に行っていない。今年私がオオゼキに1回でも行くことがあるのかどうかは疑問である。あと地下鉄が怖い。そのせいかとりわけ「銀座」「本郷」は暗いイメージと怖いイメージがしてしまいそっち方面も鬼門で避けている。なぜか「浅草」になると明るい感じがして大丈夫なのだけどどうして「浅草」が大丈夫で「銀座」が暗くて鬼門なのかの理由は分からない。大好きな駅、明るくて楽しいイメージの駅は他には「上野」方面、そして今通っている「千歳烏山」方面(調布も好き)は大丈夫なのである。

 

これは完全にASDのほうからくる症状である。

もしかしたら、他にもASDからのほうの症状で私が気づいていない症状がたくさんあるのかもしれない。

 

最近、自分のうつ病の特殊さの謎が大きく解明していっぺんに色々謎が解けてしまって逆に「分かってしまった」ことでなんだか面白くなくなってきてしまっていた。でも私にはまだまだ分かっていない「謎」がどうやらいっぱいありそうである。これで少しまた楽しくなってきた。人生は「分からないことがたくさんあるからこそ面白い」。ただADHDの方面の症状は内容がとても明るくて楽しく捉えられるのだけど、ASDのほうの症状は本を読んだりして深入りしすぎると逆に怖くなって「パニック」を起こしてしまうことも多いので、知ることがなんだか少し怖い。でも興味があってやっぱりADHDの好奇心から知りたいと思ってその手の論文とかを読んでしまう。ASDADHDが併存していると、生きるのに苦労する。ADHDだけなら明るく生きられる。ASDだけの場合も苦しいと思うけど、ASDADHDの併存はより生きにくいのではないかと感じる。自分ってどうしてこういう運命なのだろう。でも今はハンドメイド作家という明るい人生を歩めているので、そっちのADHDの方面からくる明るい世界を大切にしながら、明るく楽しく生きていきたい。

 

  ハンドメイド作家/魔法使いアリス


ハンドメイド作家「魔法使いアリス」

「メルカリ」魔法使いアリスショップ

https://jp.mercari.com/user/profile/286750451?utm_source=ios&utm_medium=share


インスタ

https://www.instagram.com/lutowinn1913


ツイッターX

https://twitter.com/momiji1913