3日前にネットでくす玉の「菊」の作り方の動画を見て、作品に一目ぼれして急に作りたくなりました。
毎日、夢中でパーツを折り、今日、糸を使って組み立てて完成!
使った折り紙数は全部で80枚(゜))<<
80枚も必要だとは夢に思っていませんでした。
意外と枚数がいるのですね。
でも、仕上がりはとても気に入っています。
また3日かけて、色違いでもう1つ、作りたいです。
見た動画はこちらです。→https://m.youtube.com/watch?v=
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さて、ここからは私の発達障害についての成育歴のまとめです。
どこがどう発達障害なのか、発達障害とは何なのか、私の成育歴を振り返りながら考えたいと思います。
私が発達障害のADHD(注意欠如多動性障害)と診断されたのは3年前、2017年の秋です。
成育歴の振り返りと、中学時代に書いていた「日記」が診断の決め手になりました。
発達障害の人は必ず過去を振り返ったときに、いろいろな問題行動やエピソードがあるものです。
ずっと見落とされて発見がおくれた私のバージョンでも、
「なんでもっと早く気がつかなかったんだろう…こんなにサインが出ていたのに」
と自分で後悔しました。
●幼少期
友達の輪の中に入ることが出来ず孤立してしまい、登校拒否をしていました。
嘘をついて、喘息の発作の真似をして、発作を起こして…を繰り返しました。
実際に「小児喘息」と診断されたけれど、精神面の不安定性からの「小児喘息」であり、自分で喘息を装って作ったのだと思います。
あと、幼稚園の頃、夜間は不眠で悩みました。
頭の中でいろいろなことを考えてしまって眠れないという症状がこの頃からありました。
空想癖もあり、いつも夜、2階の両親の部屋で「眠ったふり」をしてひとりぼっちにされると、
「今、お母さんもお父さんも、私に内緒の『お話し会』に行ったんだ…内緒で宇宙人を呼んで、宇宙人から普段食べられない特殊なお菓子をもらって美味しそうに食べているに違いない…そこにお兄ちゃんとお姉ちゃんを呼んで、ロケットに乗って木星に今ごろいる…きれいな木星で宇宙人の変わった造りの家に入って、踊りを踊りながら遊んでいる…私を抜きでそういう楽しいことを毎日やっているなんて寂しいなぁ…どうして私は参加してはいけないのだろう…宇宙人が食べるお菓子や食事を私も食べてみたい…みんなと一緒に踊りたい…私はお母さんとお父さんに嫌われているんだ…」
というような空想です。
これを幼稚園の時に毎日していたのです。
そして真剣にその空想を「実際の出来事」として信じていました。
スーパーではしょっちゅう、お母さんとはぐれて迷子になって泣きながら知らない人の親に連れられてお母さんを探してもらいました。
注意が散漫で自分の世界の中に入ってしまうため、注意から「お母さん」が消えてしまうのです。また、幼稚園では「あの子はいつもぼーっとしている」とか「枯れ木が立っているみたいにロボット」などと言われていました。
●学童期(小学校)
学童期は「国語」と「音楽」と「道徳」以外の授業をほとんど全く聞いていませんでした。
教科書をしょっちゅう忘れて、隣の子と机をくっつけて見せてもらっていました。
また、黒板に書かれたことをノートに書くことが苦手で、のろくて途中までしか書いていない状態で消されてしまいます。
「社会」や「算数」などの苦手な授業の時には、ノートを使ったお遊びゲームをして過ごしました。
学童期の頃から大好きなことはクラシック音楽鑑賞。
やっていたゲームは「ノートに家で暗記したモーツァルトの作曲したオペラ名を全て書く」ゲームです。
20曲程度あるのですが、それを上から年代順にずらずら書いていき、全部書けたらゴールです。
1つでも思い出せないオペラがあると、家に帰ってから覚えなおして、翌日の「算数」の授業の時にまたゲーム開始です。
次第に、モーツァルトのオペラだけではなく、ベートヴェン、ワーグナーへと発展していきました。
算数のテストで0点を取ったこともあります。
それなのに、友達には「安藤さんは真面目で努力家で頭がいい」と思われていました。
私の「顔」が真面目そうな雰囲気の顔に見えるので、そう思われたのでしょう。
真面目なようでいて、実は真面目でなく不真面目というのが本来の私です。
でも「真面目な自分」にどうしたらなれるのか憧れを持っていました。
発達性強調運動障害で球技やマット運動が不得意で駄目。
ただ、読書は大好きで、児童小説をたくさん読みました。
読んだ本のタイトルとページ数と作者を読書ノートに書き留めていて、小学校の間に読んだ本の総数は200冊以上です。
300冊を目指していたのですが、300冊には届かず…で中学生になりました。
●思春期
中学時代も嫌いな授業はお決まりのあのゲーム(モーツァルトの全オペラ名を書くetc)をノートでしていました。
国語の授業では忘れ物が多すぎるため、教科書やノートを忘れるたびに、国語の先生から「ガツン!」と強いゲンコツを頭に落とされ、体罰を受け続けました。
塾に通わされていて、塾での授業は聞いていたので、中学の頃は、国語は5、数学4、社会4、英語4、音楽5、美術4、など比較的成績は良かったです。
高校時代は「過活動によるオーバーワーク」が目立つようになりました。
また対人関係がこの時、乱れました。
お弁当はトイレの中にこもって隠れて食べるか、もしくはゴミ箱に弁当の中身を全て捨てていて、体重は39キロです。
精神的にオカシクなり、不眠と倦怠感、希死念慮が現れ、鬱になりました。
●その後
浪人時代にこの鬱を抜け出したけど、大学(音楽大学)で次第に感情が不安定になりました。
卒業論文を提出したその翌日、重症のうつ状態がやってきて、躁うつ病発症。
最初の5年間は「うつ病」と誤診されました。
13年の闘病の末、35歳で劇的な転機を迎え、重症の鬱を脱出。
そして現在に至ります。
詳しいことを書くと大変なので、この程度にします。
闘病生活になると、本が1冊できてしまうほど感動ある内容の話になるので、それは今後、主治医と話し合いながら話を進めていきたいです。主治医が「僕、あなたの伝記書かなきゃ」と以前、言ってくれたことがあるので、今はその日を待っています。また、その日のために、毎日、将来の夢に向けて努力しています。