ご訪問いただきありがとうございます
かいマムと申します。
現在夫婦共働きで長男きぃまる、次男ちゅけぷん、長女あーたんの3人の子供を育てています。
このブログでは妊娠中に胎児ポッター症候群と診断された次男の物語を綴っています。
胃腸の組織が未成熟なせいか、母乳アレルギーのせいか...理由も治療法もわからないが、経口栄養が吸収できていない状態でした。
前回のお話はこちら
ちゅけぷんの後、第三子、長女あーたんの妊娠の時に、マム、妊娠重症悪阻になりちゅけぷんと同じように、ポートを埋め込み高濃度栄養で妊娠を継続し、3ヶ月の入院となりました。
164cmの身長に対して体重わずか40kgになっても、まだ嘔吐は止まらず、皮膚は剥落し、栄養失調で思考も朦朧とします。入院1ヶ月くらいで、治療法もなく、先も見えず、家族も看護に疲れて、一家離散状態になり、そこまでして3人目が欲しいのか?とか、今私は一体何をやってるんだろうか、と、追い詰められました。
この辺りです。
闘病の辛さって、先の見えない長いトンネルの時期が一番苦しいような気がします。
「今日明日が山」とか、「この手術に成功すれば!」とか、いわゆる急性期の時って、付き添う側もすごいアドレナリンが出ていて、心理的にはそんなに疲労しないというか。ちゅけぷんのときも、生まれてすぐ、息をした!!おしっこした!!!腸を繋げる手術だ!腸が破れた再手術だ!と大忙しでしたけれど、私たちも、ウォーってがんばれていました。
▲アドレナリンが出ている図
けど、経口栄養は何も受け付けられない、増設したポートからしばしば感染症を起こす、体重はどんどん減っていく、腎臓は今にも透析が必要という、先が見えない状態が1ヶ月以上続き、私の心はだんだん蝕まれていきました。
この子はずっとこうやって重い障害を引きずって生きていかないといけないのか。産んだのは親の私のエゴだったのではないか...。
さらに弱った私の心に、実母の呪いがドス黒く湧き上がります。
ずっと読んでくださっている読者の皆様はご存知だと思うのですが、私には心室中隔欠損という心臓の病気を起因して、脳障害、呼吸てんかん発作を持つ重度の知的障害の姉がいます。
実母が私が幼かった頃から何度も繰り返し言ってきたこと....。「何度姉を殺して自分も死のうと思ったことか!」それをおそらくは高IQでHSCだった幼いマムに何度も何度も言うのです。自分は大変だ、自分はこんなに苦労している、自分は行き詰まっていると言うことをまだ3〜4歳だった頃からマムにぶつけていました。
お母さんが、お姉ちゃんを殺して死ぬ、と言うのを宣言される子供の気持ちを、理知的に分析し、言葉にすることを私はいまだにできません。
そして、こういう、きょうだい児の特徴なのですが、それを辛いと、誰にも言えないんですよね。
人知れず深い沼に沈んでいっていることを隠していたマムを救ってくれたのはS先生でした。
ある日NICUに行くとS先生から交換日記が置いてあったのです。
ノートも完全に先生の自腹…
この方は私が見ていても尋常じゃなく忙しく、信じられないほど勉強家で、赤ちゃんの命を絶対諦めない情熱家です。
別に頼んだわけでもなんでもないのに、ノートにはちゅけぷんがどんな症状で、それに対して考えられる鑑別はどうで、新生児のそうした症状にどのような治療法が過去に試されているか、だからちゅけぷんにどんなことをするか、した結果、効果があったかなかったか、事細かに書いてありました。
一進一退、立ち止まっているようにしか見えなくても、この人は絶対諦めないんです。
だって、ちゅけぷんが諦めてないから。
この栄養摂取不良の膠着状態においても、S先生だけは絶対にいつかちゅけぷんに母乳が必要な時がやってくるので、お母さん、搾乳をやめないでください、NICUの冷凍庫を最大限提供しますから、とおっしゃってくれていました。
しっかりしろ!!私!!!
気合を入れ直して、今できることを考え、ちゅけぷんが一生付き合っていく小児腎不全について学ぶことに取り掛かりました。私の人生において、学びは必ず、生きることの道を開いてくれました。
できないなんてことはない。
未来が閉塞していると決めるのはまだ早い。
だって本人が絶対不可能という医学の常識を覆して生きて生まれてきて、こんなにも毎日生きようとしている。
親の私が負けてどうする。
S先生の懸命さに救われました。このノートは今も私の宝物です。
続く