もう毎回長くなるから、挨拶も早々に続き行きますね
いよいよ逆子が回らずに予定帝王切開が見えてきたかいマム。
納得しないまま、このまま行くとトラウマになりそうで、必死で自分の心と向き合います。どうやら理由は二つ。ワタクシ研究職の端くれなのですが、自然科学的な興味で、自然分娩してみたかった、ということと、幼少期の親の愛情不足がボディブローのように効いていて、ナーバスになっているっぽいというところまで自己分析できました。
シリーズ①②③④はこちら。
赤ちゃんがお腹の中にいる時間って、ワタクシのようなドライ気味な(お肌ちゃうで?)人間ですら、すごい幸せなんです。なんだろう、これが母性本能というやつなんだろうか。
キックしてくれたりモゾモゾと胎動を感じる度に、自分とは別の生命を一つの身体の中に宿している幸福感で満たされます。と、同時に幼い頃から一人でなんでもできる、と生きてきた自分が実はこんなにも寂しかったんだ、と、癒されていることにも驚きました。
自然分娩は赤ちゃんとお母さんの究極の共同作業です。
妊娠期間の間に私の寂しい心を癒してくれた赤ちゃんと、この共同作業に臨むということを想像すると、自分の親との愛着障害のような拗れた関係に終止符が打てるような期待と高揚感を感じてしまっていました。
しかし、それこそ、母が幼いワタクシにしてきたことと同じことだったのです。
子供は親の道具ではありません。
私の母は誰の協力も得られない障害児の子育ての中で、幼い私を都合の良い戦友に仕立ててしまいました。
もし、私が生い立ちのせいで親子の愛情のあり方になんらかのトラウマを持っていたとしても、その解消を自分の子供に委ねてはならないのです。それではネグレクトの連鎖になってしまう。
私の母は幼い子供だった私が母に捧げた無償の愛にズルズルと頼って馬乗りになりました。
存在自体が無償の愛をくれる赤ちゃんに、同じことをしてはいけない、神助産師さんの言葉がここでも効いてきます。
「赤ちゃんにはね、回りたくない理由があって逆子のことも結構あるんだよ。」
そうか、君には君の理由があるんだね。
やっぱりまだ複雑な気持ちはあるけれど、"お母さん"だから君に寄り添う覚悟を決めるよ。
私が初めてお母さんへの一歩を踏み出した瞬間だったかもしれません。
長男がしつこく逆子だったことの意味を知るのはこれから4年後になります。その話はまたおいおい。
ベッケンシリーズこれにて完です!
🌀かいマムのかいまわり🌀