Fable Enables 35
我ながら大胆なことをしたと思う。しかし、具現化した不安を抑えるためには本能的なことだったのかもしれない。事なかれ主義の俺は、茶髪の男に向けてゆっくりと足を進めた。
相手がこちらを見た。
その瞳に警戒の信号が映り、茶髪は踵を返すと走り出した。
俺は駆けだした。誰かがその追跡劇を見ているのではという感覚はなかった。ただ、茶髪を捕えることが自体を好転させることだと無意識に信じ込んでいた。散々マコトが唱えた『善後策』は、ようやく機能し始めた。
相手の運動神経は香足駅での追撃で心得ている。階段を猛スピードで下った俊敏さがある。
しかし、平べったい場所での脚力はどうか。年齢的には俺だってちょうど旬になりかけたところである。相手の短身という身体的特徴は致命的である。
脚を早く回せば追いつく。俺にはその確信があった。
騒ぎの中心から遠ざかるように、ふたつの人影が駆けてゆく。その差は徐々に縮まっている。
突然、前を走る茶髪がこちらを振り向き、何やら口の中で呪文のようなものを唱えた。
一瞬、ぎくりとした。
もしかしたら召喚か。香足駅でのように、こちらの動きを牽制する策に出るのか。
刹那のうちに俺はそう考え、躊躇し足を止めそうになってしまったが、驚くことに俄然異変があったのは相手の方だった。何かに驚愕し、戸惑っている様子で、明らかにスピードが落ちた。
何があったかは知らないが、俺はその機を逃さなかった。一気に距離を稼ぎ、相手に飛びかかり、肩から首に腕を回した。
謎めいた交通事故の傍で追跡劇を繰り広げた俺たちは、いつの間にか注目を集めていたらしい。改めてそのことに気付いた俺は、やたらと明るい声でもって防御線を張った。
「大丈夫、怖がらなくったってまだ生きてるって。救急車が来る。お前は少し落ち着け」
首に回した腕は、さも親友を介抱するようにと見せる。相手は諦めたようで、されるがままにしながら荒くなった息を整えようとしている。
『落ち着け』と言ってしまった俺は、芝居をしながらまだアミがいるであろう喫茶店にこいつを連れ込むことにした。
首根っこを押さえられたまま、その茶髪は「くそ、どうして力が……」と呟いた。まだ声変わりをしていない少年のごとき声であった。