理のなき遺書21 | ユークリッド空間の音

理のなき遺書21

「あの遺書は仲川さんのパソコンで書かれたものではない。このことを前提として事件を検討してみましょう。あの遺書はどこでどうやって作られたのか。まず考えられるのが、仲川さんが他人のパソコンで遺書を書いたということですが、外で遺書を書く必要性はまったくない。これは簡単に除外できます。次に、あなたの調査報告を終えたあと、何者かが仲川さんの元を訪れ、仲川さんからことの次第を聞いてから彼を殺し、偽の遺書を作成したという場合。時間を見ますと、仲川さんの死亡から発見まで、長く見積もっても二時間です。この間に犯人は仲川さんから調査内容を聞き、彼を殺し、どこかほかの場所で遺書を作成してふたたび仲川の元を訪れたことになります。しかし、時間的に可能だったとはいえ、犯人はわざわざ外で遺書を作成してくる必要性はありません。犯人なら現場のパソコンで遺書を作成するはずです。これも否定されます。
 遺書の情報を仲川さんから得るという筋書きは遮断されました。残された可能性を探ります。まず犯人はあなたの調査旅行を逐一見張っていて、前もって遺書を作成していたということです。これならば、仲川さんの家のパソコンを用いなかったという点は説明できます。しかし、これも残念ながら除外されます。あなたは実際には新潟を訪れていないからです。いいですか、あなたの調査報告書には、新潟という地名は具体的には書かれていなかった。つまり遺書で言及されていた『新潟に行った』という情報は、あなたか仲川さん本人の口から聞かない限り、決して手に入れることのできない情報なんです。だんだん論点が絞られてきましたね。ならばなぜ遺書には『あなたが新潟に行った』ということが書かれてあったのか。答えはひとつしかありません。この遺書は『新潟を調査する予定であった』という状況で書かれたということです。誰がそんなことをし得るでしょうか。実際に調査旅行に赴いたあなたしかいません。これならあなたが殺害にたった十分しか時間をかけなかった理由も解けます。遺書はとうの昔に完成していたんです。折角のアリバイ工作が完全に裏目に出ましたね」
「違う……違う! それはわたしが遺書を作ったことを証明したに過ぎない。わたしは殺してなんかいない」
 雨宮は憐れむような目を向けた。
「往生際の悪い人だ。あなたは遺書を捏造したことを認めた。そうじゃあありませんか」
「そう言ったはずだ!」
「仲川さんは日下部理子さんを殺して国道沿いに埋めたと書いた」
「そうだ。それだけだ」
「日下部さんが埋められていたこと、あなたはどこで知ったんですか。どこで、誰から、どうやって」
「……!」
 過ちに気づいたときには遅かった。徳長は自縛の紐に絡め取られていた。
「仲川さんの件が殺人なのか自殺なのか幇助を含んだ自殺なのかは状況から判断して推測する以外にありません。しかしあなたは日下部理子さんを遺棄した。これは間違いない」
 沈黙が訪れる。一秒が永劫のごとく、住み慣れた部屋は牢獄へと変わり、雨宮という刑事は途轍もない力を誇る怪物へと変貌している。
「負け……ですね」
 かろうじて絞り出した声が、徳長を現実へと引き戻す。計画は、雨宮の手によって完膚なきまでに破壊された。
「調査旅行の手を抜いたのが運の尽きです」雨宮が笑う。
「そのとおりだ。あのときタイヤのチェーンさえ見つかっていれば……」
「懲りない人ですね。あのとき日下部理子さんを死に追いやっていなければとは思わないんですね」
 言い訳さえ否定され、返す言葉もない。
 緊張はゆるみ、どっと全身に疲労感が溢れた。徳長は胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけて口の端に銜えた。
「警察に行くのは一服してからでいいでしょう?」
「ご随意に」雨宮は苦笑を寄越した。
 肺一杯に満たした煙を吐き出すと、燻らせた紫煙の向こう側に雨宮の姿が見える。
「古林君はがっかりするだろうなあ」遠い目をして徳長が呟く。
「彼のことだ。新たなご主人を見つけるでしょう」
「違いないね」
ふたりは、長年連れ添った朋友のように声を上げて笑った。

 

(了)

 

 


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