闇の実験室13
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署に戻った真野は鑑識の報告を聞いた。溝口の死因はニコチン中毒である。ポットに入っていた湯、および紅茶のパックからニコチンは検出されなかった。鑑識の見解では、毒が仕込まれていたのはマグカップそのものだという。
「どういうことですか」真野は軽く混乱していた。「カップに仕込まれていたということは、昨日溝口が帰ってから今日出勤するまでに犯人はあの部屋に入ったとしか考えられないじゃないですか」
「だから言っただろう」雨宮は笑う。「これは不可能犯罪だと」
「じゃあ、犯人は鍵の閉まったドアをすり抜けたと?」
「真野くん、憶えているだろう。溝口の持っていた鍵の中で、あの実験室の鍵だけがキーホルダーから外れていた。そして肝心のキーホルダーには一箇所だけ壊れた跡があった。つまり、彼が昨日研究室を出てからあの鍵を落とした可能性が出てくるんじゃあないかな」
「 それじゃあ」
「そう」雨宮は満足そうに笑った。「犯人はその鍵を拾ったんだ。そして夜のうちにカップを仕込み、今日、溝口が出勤する前にその鍵を返した」
「それじゃあ犯人は……」
誰なんですか、と真野が言おうとしたとき、ドアが音を立てて開いた。
「雨宮さん!」
駆けつけたのは同僚の桜田である。
「雨宮さん、大変ですよ。柊木琴美は自殺でした」
想定外の言葉に、真野は瞠目した。雨宮も急に表情を引き締める。
「どういうことだ」
「柊木の実家に封筒に入った遺書が届けられていたんです。柊木琴美は郵送で遺書を親に託したんですよ」
「動機は」
「恋人との関係がこじれたそうです。それに悲観して死の道を選んだと……」
「わかった。桜田くん、引き続き柊木の身辺を洗ってその確認を。真野くん」
「はい」
雨宮の口調が変わった。何か重大なことに気づいたのだ。この一連の事件の裏に潜む真相に肉薄する何かに。
「柊木が自殺……。とすると、溝口事件はまったく別件ということになる。つまり犯人は柊木に動機を持たないものでもいい」
「その犯人とは……」
「小石川に決まっているだろう」雨宮の視線が真野の目を射抜いた。「溝口のカップに毒を仕込んだのは小石川以外に考えられない」
「しかし動機は」
「いいかね真野くん。小石川は溝口の研究室の鍵を拾った。大原教授の話によると昨日教授と溝口は一緒に建物を出たということだから、溝口はその後、小石川と会っていた、ということになる。そうでないと小石川が鍵を入手することは不可能だ。そして溝口と小石川はそんなことは露ほども言っていなかった」
「ということは……」
「溝口と小石川は『できていた』ということなんだ。恐らく溝口の方からその立場を利用して華奢な小石川に迫ったんだろうね。しかし小石川にはその関係が疎ましかった。これが溝口殺害の動機だよ」
「しかし……」
雨宮の口振りでは小石川が犯人であるという確証があるようなのだ。その根拠は何なのか。
その真野の思考を盗んだように、雨宮は鮮やかに笑った。
「小石川が『あのこと』に言及していなかったのが何よりの証拠だよ。さあ真野くん、今すぐ小石川に会うんだ。ぐずぐずしているとこの証拠は証拠でなくなってしまうからね」