嵐の連立方程式20 | ユークリッド空間の音

嵐の連立方程式20

 次第に項垂れていく聖川に、雨宮はそっと、壊れ物を置くような声で話し掛けた。
「あなたが犯人なのですね」
「……ええそうです」聖川はわずかに顔を上げる。「そのとおり。わたしが辻谷を殺しました」
「動機は……、教団の方針ですね」
「そうです。辻谷は幹部がいかにして繁栄するかということしか考えていなかった。このままではわたしを必要としている人たちに申し訳なかったのです。辻谷を殺さなければ彼らを救うことができなかった……」
「聖川さん」懐中電灯を持った手をだらりと落として、雨宮が言う。「あなたが本当に救うべき人間は辻谷さんではなかったのですか? 彼こそあなたの救いを必要としていたのではないですか? マザー・テレサはこうおっしゃったと聞きます。『大切なことは、遠くにいる人や多くの人ではなく、目の前にある人に対して愛を持って接することだ』と」
 聖川は首を振る。「いいえ、辻谷は特別な人間でした。わたしとしても手の施しようのない堕ちた人間でした。あの根性を叩き直すことなんて到底……」
「聖川さん」
 雨宮が聖川の言葉を遮る。今までと打って変わった強い口調、そして哀しみ、怒りを孕んだ声で。一瞬、聖川はびくっとして顔を上げた。
「わたしを落胆させないで下さい。この世の中には様々な人間がいる。辻谷のように自身のことしか頭にない人間もいるでしょう。しかし彼にだって命があり、存在意義があった。あなたが彼に何かを施そうとしたように、彼からあなたに施されたものはゼロではないはずだ。命の倫理をつい先日発表されたのはあなた自身じゃあないのですか。あなたはたった今、死者の名誉を侵害した。ご自分の行為を正当化するために。そんな言い訳なんて聞きたくもありません。撤回を望みます」
 雨宮の言葉がその胸に深く突き刺さった。
 方法は他にもあるはずだった。すべてを活かし、すべてを円滑に運ぶことのできる最良の方法が。法を破ること、それは人として絶対にしてはならないこと。自分に辻谷を蔑む権利など……一片も存在しない。
 聖川は、雨宮を称えるような笑みを浮かべて頷いた。
「……申し訳ありませんでした。まったくあなたには敵いません。そのとおりです。わたしは……、すべてにおいてやり方が間違っていた。まだ修行が足りないようです。初心に返らなければならないようですね……」
「行きましょう」雨宮がそっと促す。「外ではあなたを待っている人がいます」

 丘の下にその光は存在した。聖川は事件当夜を思い出し、酷い既視感を覚えたが、それは幻などではない。
「教祖!」
「教祖!」
 懐中電灯を携えた青年達がこちらに駆け寄ってくる。何ということだろう、彼らはこの嵐の中、傘も差さず、躊躇もせず、その場で自分のことを待っていたのだ。自分を信じて待っていたのだ。
「よく聞きなさい」聖川は最後の言葉を張り上げた。「皆、自分の幸せを信じ、そして隣人の幸せを信じて精進しなさい。たとえ特別な力がなくとも人を救うことは出来ます。あなたたちにも。子供にも。強い意志があるならば、どんな人間にも。隣人の存在が愛とわかったならば、それによって自身の存在は、自身の思惑にかかわらずおのずと愛そのものだという答えが出てくるのです。あなたたちはその指導者にふさわしい。逆境に負けることなく、これからも教団を引っ張っていきなさい。そして……決してわたしのような――、……いえ、決して自他を蔑にいするような人間になってはいけません。自分ひとりの中で自分だけの答えが見出されるというのは思い上がりです。肝に銘じておきなさい」
 聞き終わった信者たちの頬には涙が流れていたが、それも嵐のため、すぐにその跡は掻き消されてしまった。
「行きましょう、雨宮さん」
 レインコートの向こうには、眩しそうに目を細めてこちらを見ている雨宮の姿があった。

(了)



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