雪の童話21 | ユークリッド空間の音

雪の童話21


 ……、……、……。
 ……、……、……。


 夕方になって、とうとう厚い灰色の雲からは雪が降り出してきた。日も沈んで気温は更に低下し、体感温度では氷点下になっているのではないかとさえ思われる。しかし、今回の雪はおとといのものと比べて勢いが弱く、積もったとしても精々十数センチほどにしかならないだろう。
 クレイヴは出発点で空を見上げた。後から後から降ってくる雪を見ていると、茫漠たる高い空に吸い込まれそうな感覚に陥る。殊に、街灯が少ないトーレンス区では、その景色は更に幻想的なものになる。漆黒の闇の中に、白い天使たちは躍りながら舞い降りてくる。
 結局、昼の調査では容疑者を絞り込めなかった。ショウが作成したリストに載っている人物も何かしらアイバンに関係した者達であるからして、簡単に除外はできない。今回の捜査に当たっては、警官を総動員させてそれら容疑者の動向をそっと窺っている。目下最も有力な容疑者と思われるアルフレッドにも、真面目な相方パトリックが張り付いているはずだ。アイバンの部下のキャロルや、アイバンの研究に関わっていた会社の役員メリッサも同様にその動向が見張られている。
 時刻は午後七時になろうとしている。ようやく囮捜査開始だ。
 行軍のルートは前もって調べてある。ふたりの被害者、アイバンとリドリーの通勤ルートを調べ、それに沿った道を選んだ。トーレンス区を東西に貫く広く長い道。もちろんその中には両者の殺害現場も含まれている。
 まずクレイヴは西の端から出発した。
 情報で得られていたとおり、この道は人通りが極端に少ない。雪の道に残される足跡もクレイヴのものだけ。
 トーレンス区はその東に大きな住宅区を抱えているが、西に当たるこの辺りは家も少なく、一面に田や畑、林が広がっているのみ。広々とした景色が、ちょうど殺害現場である辺りまで続く。
 コートに顎を埋め、クレイヴは黙々と歩いた。降りしきる雪は帽子が防いでくれるため、体温が奪われることはない。白い雪はその内肩に山のように積もるので、それが鬱陶しくなると、クレイヴは時折手袋を嵌めた手で払うようにした。
 辺りに抜かりなく視線を這わせる。警戒して周りを窺うが、何者かが近くに潜んでいるような気配はない。ただしんとした静寂が広がっているのみ。クレイヴは時折遠くに見える街の明かりを見て、我が身の侘しさを実感した。
 警察に入ってよもやこんな仕事を引き受ける羽目になるとは。
 徐々に降り積もる雪によって広い道路も次第に厚く埋められていく。サクサクと足が雪を踏む音が静寂の中に響き渡る。
 と――。
 クレイヴはにわかに気を引き締めた。前方から不審者が近付いてきたのだ。初めは夜の闇に紛れて霞んだようにぼんやりとしていたその人影も、近付くにつれて次第にはっきりと見えるようになる。やがて目の前に完全に姿を現したその人物を見て、クレイヴは仰天してしまった。
 彼――それは間違いなく男だった――の身につけているのは、灰色のコートに灰色の帽子。目深に被った帽子のお蔭でその顔全部は見えないが、寒さに凍えているらしき口元がはっきりと見てとれる。
 驚いたクレイヴは思わずその場に立ち竦んだ。これは予想もしなかった展開だ。犯人がくることには用心をしていたが、まさか自分と同じ、いや、事件の被害者と同じ服装の人物がここに現れようとは。
 彼は何者なのか? 口元をよく観察したが、その顔に見覚えはなく、捜査の過程で出会った人物ではない。
 こいつはこの事件に関係しているのか?
 そう思って警戒したが、相手の方はこちらに一瞥をくれるとすれ違って行ってしまった。彼がこちらを襲ってくるような気配は感じられない。
 ――偶然なのか? この服装は全くの偶然なのだろうか。
 よほど彼をとっ掴まえて問いただそうと思ったが、クレイヴが目に見えぬ呪縛に囚われている間に、彼は遠くに姿を消してしまった。
 仕様がない。ここは再び任務に戻ることにしよう。
 東に移動するにつれて、少しずつ家が目に付くようになってくる。今クレイヴが目の前にしているのは大層大きな豪邸だ。庭には動物をかたどって刈り込まれた観葉樹が植え込まれてあり、それらにも例外なく白い雪がこんもりと積もっている。二階の窓に明かりが灯っているが、その窓のカーテンは閉まっている。わずかに漏れる明かりが降りしきる雪を照らし出し、白の幻想を一層と引き立てている。
 そんな家も通り過ぎ、殺人現場も通り過ぎた。ひょっとしたら現場近くの林に何者かが潜んでいるのではないかと思ったが、誰かが襲ってくるようなことはなかった。
 結局クレイヴは一時間掛けてトーレンス区の東、居住区の入り口までを踏破した。
 むろん終了地点に誰かが迎えてくれるわけでもない。そんなところを犯人に見られたら囮捜査であることがばれてしまう。クレイヴ達の計画では、何事も起こらなかった場合は再び来た道を戻ることにしてある。まだ見ぬ犯人との接触の機会を増やすのだ。
 クレイヴは足元に積もった雪を見る。そこに刻まれた足跡の線はふたつ。ひとつは今しがた自身が刻み込んできたもの。もうひとは、行軍の途中に出遭ったあの灰色のコートと帽子を身に付けた不審者のものだ。それは更に東の方向に続いており、あの不審者はその方向から歩いてきたことを物語っている。
 そう言えば……、現在容疑者となっているのは東トーレンス区の住人。不審者の来た方向から察すると、彼が犯人である可能性も大いにあるわけで……。
 猜疑心が芽生えるが、消えてしまった彼だけに拘っているわけにもいかない。今、東トーレンス区には厳重な捜査網が敷かれているから、あの不審者もまったくの無防備でここまで来たわけではないはずだ。
 辺りを見回して誰もいないことを確かめると、クレイヴは再び雪の道を踏み締めて歩き出した。


(続く)