Fable Enables(仮)1(仮)
物語は世界のうえに成り立っている。
世界は自己のうえに成り立っている。
物語に登場する人や獣や植物や物質は物語のうえに成り立っている。彼らにも世界があり、そこに物語がある。ただ、どれだけ強靭な意志を持っていようとも未来を変えることはできず、たとえば登場人物がすべて望まれざる死を迎える物語であれば生きたいと願ってもそれは叶わず、たとえば小人が巨人を倒す物語であれば小人は絶望的な状況のなかで決して諦めてはならない。
しかして彼らは受動的なわけではない。誰かによって創られたという能動的な意志が裏にあるかぎりその存在は能動的であり、俺たちに積極的に働きかけてくる。彼らは俺たちのなかで成長し、世界を創り、物語を創る。この点では受動することに能動的、とでも言おうか。ややこしい。彼らの一部がいなくとも俺たちが一生をまっとうするのに事足りるであろうが、なにがしかの糧を与えてくれることは事実だ。それは、地球上にまだ見たことのない人や獣や植物や物質があっても自己の世界の外にいるだけであって、自己の世界と関わりはあるもののそれが確認できないことと等しい。
では現実に生きている俺たちと物語のなかの彼らとはどう違うのだろう。存在しているかしていないかだろうか。いや。彼らは存在している。名前があるという時点ですでに存在の対象になっている。現に俺たちは見えないものに名前をつけ、あたかも「そこにいます」と見せかけることをやっている。とかく人間は名前をつけたがる。会話の潤滑化を進めるには越したことはないのだが、その貪欲さには脱帽する。そういえば、見えない存在を「エーテル」と名づけたと耳にしたことがある。これは極端な例だが、身近な例を挙げると「心」は見えないが人間はその存在を信じて疑わない。「虚数」にせよ「消失点」にせよ、存在するものにはあまねく名前がついている。俺の祖父は「存在した」という過去形になってしまったが、ベタな話、そのことを記憶しているかぎり祖父は俺のなかで現在完了進行形で「ずっと存在し続けている」。対偶を求めると名前がついていないものは存在していない、ということになる。
実存という点を考える。フィクションであるかぎり、彼らは実存していない。これはそれらしいことに思われる。実存しないからその存在は伸縮自在であり、実存における不可逆な構成とは異なっている。実存の世界は刹那であり、非実存の世界は永遠である。永遠を宿した彼らは決して目の当たりにすることはできない。
こんなことをずっと考えている。
俺はなにも好んで四六時中こんなことを考えているわけではない。学校の課題や生徒会活動、話題のアーティストや異性に喜ばれるプレゼントなど時間を割きたいことはほかにもある。十七歳健康優良児としては、むしろそれが本分である。本当のことを言うと、こんなことは考えたくもない。
しかし、考えざるをえないのである。
見えないものが見えてしまったからには。
案があれば続く(ぇ