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Success Fortune 筆頭占術士
フォーチュンアカデミー 専任講師

「心」とは人の身体の何処にあるのだろうか?この問いに改めて解剖学や脳科学を持ち出す必要は無いだろうが21世紀の現代でさえ人はロマンティズムと文学的比喩として、その場所を胸としたがる。
「彼を想うと胸が痛い」と言っても両手に抱えたバラの棘がシャツを突き抜けて刺さっている訳でも心筋梗塞の症状でもない。まるで意識や感情を司る心なる臓器が胸部の何処かに存在しているかの様な表現である。
 日本語では心の臓器と書いて心臓。しかし、まだ理性に於いて我ら日本人は言葉の上で心と心臓を分けて取り扱っているのだがこれが英語になるとHeartと綴って心と心臓の両方をさすのだ。Broken heartで失恋であり、Heart Specialistなら心臓外科医といったぐあいである。人類が文明を持つ以前、狩猟によって得た獲物の体内で脈打つ臓器を見て、命の象徴と捉えたであろうことは想像がつく。だが世の東西を問わず、人はそこに命ばかりか感情を司る「心」を位置付けたのだ。体内の血管に血液を送るポンプであるところの心臓が物を見て美しいと感じたり、恋人や家族を想って幸福感を覚えたりはしないだろう。言わずもがな、それは脳内で分泌される化学物質の影響や理性や記憶がもたらす反応である。
 「心」なる代物が頭部に在ろうと胸部に在ろうと、いずれにしても非物質で目には見えないもの。士郎正宗はアーサー・ケストラーの著書The Ghost in the Machineに習い、攻殻機動隊の中でもそれをゴーストと呼び、近未来に於いてコンピュータープログラムの中に存在する非存在として心=意識を取り上げた。現実社会でも名人、チャンピオンがゲームボードの上でAIに負けを喫しているがAIは、その勝利を喜ぶことはまだ出来ていない。奴らがこれを手に入れるには、まだ時間がかかるだろう。しばらくは人類に残された特権的能力だと思っていて良かろう。

 そういえば、このカードには頭も胸も描かれてはいない。これは偶然ではあるまい。

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 タロットカードを学んだ者なら誰しもが小アルカナのカップのカードは水の属性を持ち、感情と関連付けられる事を知っている。あるいは知っているつもりでいるだろう。恐らく何の疑問も待たずに。そこにある大きな落とし穴の存在に気付くこともなく。
 

 錬金術の4大エレメンツの水は、即ち感情を示している。この事に間違いも疑いの余地も無いのだが、注意深くカードを観て頂きたい。カップから沸き出し、より多くの水の集合体である池に注ぎ落ちて同化して行く様子が描かれている。水は、いかなる形の器に対しても姿を変えて収まり満たして行く。このことからも水が感情や情緒と結びつけられている。卓越した観察眼と感性を持った方なら、既に気付かれたかもしれないが「象徴としての水=感情」なのであって「カップ≠感情」。水が感情を現しているのであって、カップは感情を直接的には現していないのである。カップとは水=感情の入れ物である「心」の象徴。これを踏まえ改めてカップの全カードを見れば、各々のカードが表している情景や人物像へのより一層の理解が深まるはずである。
器と中身がカップと水であり、すなわちそれは『心と感情』。

 

 ところで、実際に使用するカップなら食器棚の中かテーブルの上にでも在るのだが、人の心とは何処にあるのだろうか?


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                                     (当連載は2018年記述の加筆再掲載である)

Fool's Journey 愚者の旅  Day1
 

 もう何度も旅に出て、何度も旅を終えた。暗い夜の果てに夜明けが訪れ、世界が光りに満ちて輝きだすが如く、湧き上がり広がる好奇心と興味に突き動かされ歩みを進める。貴重な体験と興奮は、やがて収束を迎え旅が終わり家路につくことになる。
 今も旅の途上でもある。そしていつかは、最後の旅を終えて二度と陽の落ちる事の無い黄金の玉座の輝く夜明けを迎えるのだろうか。しかし、学ぶべき事は多く、未だ及ばぬことばかり。こりゃあ当分は旅を終えるのは叶わぬ夢になるのは明白な事実である。

 占い師なる稼業を長年していると、自分が世間の良識者を自認する一般人からどう見えるのかは、大概のところの察しが付く。改めてこの場に不愉快で不名誉な数々の言われ方を列挙するほど小生は悪趣味でも無く、そもそもそんな事に頓着は無いのである。求める意欲と志があれば十分に歩みを進めて行けるのだ。本音を言えば、変人扱いされることに慣れてしまっているばかりか、ちょっと面白がってさえいる。

愚か者なるが故に求める処が在り、愚か者で在るが故に見える景色が存在するのだろう。ややもすると利口ぶった硬い頭と行儀良く窮屈に生きる道に居たのでは辿り着けないのかも知れない。だから、愚者の旅を続けて行くのだろう。

 私の旅に国境は無く、何処へでも行ける。交通手段も路銀も必要ない。奇妙な絵空事の様な私の旅は、その実、極めて現実的で生々しくもあり有意義な生き甲斐でさえあるのだ。友人から届く喜ばしい絵葉書の如く、ここに私の今回の旅で見かけた風景や感じた彼是を四方山話として記し行くこととする。





(当連載は2018年記述の加筆再掲載である)