てきとーな美術辞典

てきとーな美術辞典

辞典とか言ってるけどよく調べないで適当に主観で書いてますので信用しないで、気になったら他の文献も当たってください。ネットの情報をうのみにしてはいけない(戒め)

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 展色材(メディウム、ビヒクル、のり、媒剤などとも)とは、顔料を分散して絵の具とするもので、乾燥後も残留するものである。油絵における乾性油、水彩におけるアラビアガム、日本画における膠などがある。

 絵の具は基本的な構成として、顔料(色)と、展色材(練り合わせ材)で作られている。どのような展色材で練るかによって絵の具の性質が決まる。

 同じ顔料でも、油でそれを練れば油絵の具になり、膠で練れば日本画の絵の具になり、アラビアガムで練れば水彩絵の具になり、卵で練れば卵テンペラ絵の具になる。「〇〇絵」「〇〇画」とは、概して展色材に何を使っているのかで呼称が決められる。

 

 また蒸発し成分として残らないものは展色材とは呼ばない。油絵におけるテレピンなどの揮発性油、水彩における水などは乾燥する過程で蒸発してしまうので、こういう薄め液の類は対比して「溶剤」あるいは「希釈剤」と呼ばれる。

 

 展色材というのは接着材で、絵の具を固定するものだが、なぜ絵の具にそれが必要なのかは「なかった場合」を想像するとすぐに分かると思われる。

 展色材のない見た目上の絵の具、例えばその辺の土を水で練った泥を思い浮かべるとしよう。

 これを紙に塗ると、水の蒸発乾燥後、ただの土に戻ってしまい、風に吹かれただけで飛んでしまう。

 この土が紙の上に形を保って保存されるには、描くときは操作を受け付け、乾燥などによって固化する物質で練り合わさなければいけない。そういう何かで練ったとき、この土は絵の具になる。

 

 展色材は顔料を結びつけて一体となることと、描いたもの(絵の具を受け止める紙やキャンバスなどを『支持体』と呼ぶ)に食いつき剥がれないようにする力が求められる。これは展色材の能力だけを見るというよりは、支持体との相性もあるので材料の選択によって適切に対処する。

 

 一般に支持体には絵の具の食いつきを受け入れられる繊維質あるいは多孔質のものが多く、ガラス板のようなつるつるしたものは向いていない。乾いた後、絵の具が剥がれてしまうからである。現在ではアクリル系でガラスにも接着させる助剤が出回っているが、基本は接着というのは支持体のミクロのでこぼこの穴に絵の具が自身を投げ込んでいくことで噛み合わせを発生させる。こういうものを投錨効果という(機械的結合ともいう)。これが生まれることが確実な接着と耐久性を得る上で前提となる。

 

 油絵の制作の基本中の基本として、「ファット・オーバー・リーン」というものがある。上に乗せる絵の具は必ず下層より油っこくないといけない。つまり描き初めは油を控えめに、テレピンなどを多めにして、仕上げに近づくにつれ油を濃くしていく。これはそうしないと絵の具が乗らないからである。

 油分の少ない絵具層は多孔質であり、上に乗る絵の具の投錨を十分に受け付ける。しかし油分が過剰になると、乾燥後に食い込める穴を残さないので、途中で油を使いすぎると描き終わってないのに絵の具が乗らなくなることがある。絵の具の滑りや弾きは特に樹脂を多用した場合に起こりやすいが、これは樹脂がソリッドな物体なので上に物を受け付けなくなる。穴を塞ぐのである。樹脂は配分に注意するべきもので、乾燥が早まるからという理由で乱用するのは本当は望ましいことではない。

 

 投錨効果に続いて絵の具層、あるいは支持体とが密接に接着する力は材料によって異なるが、分子同士の接触によってお互いに力が働きあうものとなる。具体的には共有結合やファンデルワールス力などによってくっついていく。

 

 少し脱線するけれど、油絵の制作中に画面が弾いたり滑ったり、あるいは長期間放置しすぎて絵の具が乗らなくなったときの対処としてルツーセ(ダンマルなどの樹脂溶液)の塗布が一般に言われているけれど、私はやはりルツーセは最後の手段だと思っている。ルツーセも魔法の薬ではないので、食いつきを復活させてはいなくて(そうするには絵の具層を破壊しなければならない)、あれは画面を濡れるようにしているだけのことなのだ。濡れれば親和性が高くなり分子同士の距離が近づいてファンデルワールス力は生まれるから、絵の具は乗るけれど、ルツーセの下と上の層はほとんどファンデルワールス力でくっついているだけと言ってよくて、油のスクラムを組むような化学的な結合は他の層よりずっと弱くしか生まれないと予想できる。

 

 でもファンデルワールス力は別に悪くはなくて、水彩に用いるアラビアガムなどはこの力で食いついている。「ファンデルワールス力」という言葉の響き的には悪役が使う禁術みたいだけれど、そのじつ「全ての分子が持ってる、お互いに引き合う力」とかいう主人公側が物語の佳境で愛によって目覚める力みたいなものだから、印象で物をいうのはよくないものだ。

 ポピーオイルはけしの種から取れる乾性油である。普通に見かける花のポピーからではなくて、分類的にはけし科の中にポピーがある。この油はアヘン、つまり麻薬の原料になるものの種から取っており、材料の管理は厳密に行われている。日本でも昔は監視のもとに生産されていたようであったが、今は工業向けの生産はやめてしまった。研究用に少量の栽培はされているようだ。メーカーは熱処理されて発芽しなくなった種を輸入して加工している。

 

 ポピーオイルはリンシードオイルと並んでよく使われる油で、最初に選ばれる油というのは普通はこの二つのうちどれかである。ほとんどの人の場合、油絵を始めた時にはセットものなどについてきた調合溶き油(最初からいい塩梅にブレンドされてるもの)を使い、そのうち慣れてきたら人によっては自分で調合をするようになる。つまり油や溶剤を買うことも出てくるのだが、その時の油の選択肢が上記二つにほぼ絞られている。これらは加工されてない生の油で、まず使いやすいこと、描き方を選ばないことが理由となっている。最初からあんまり変わったメディウムを買ってもたぶん混乱すると思うので、いきなりスタンドオイルとかを選ばない方がいい。

 

 使用法はリンシードオイルに準ずる。通常はテレピンやペトロールで割って使う。樹脂や乾燥剤を足したりもする。

 

 ポピーとリンシードはその特性の違いからよく対比させられる。リンシードは皮膜が強靭で比較的乾燥が早いが、もともと黄ばんでいる上に強く黄変する。ポピーは色が淡く、あまり黄変しないが、皮膜が弱い。ひび割れや戻りなどの事故もリンシードより多く報告される。

 生乾きのうちは艶にも若干の差があり、リンシードはどちらかというと穏やかで、ポピーはややキラキラとしてて華がある。

 どちらかというと油彩技法にとってはリンシードオイルの方がスタンダードである。ポピーは淡い色の絵の具を練る時や仕上げの描写などの限定的な使用を推奨されている。

 

 化学的な差は、脂肪酸の含有率による。乾性油はリノール酸とリノレン酸の二つをどれだけ含んでいるかで性質が決まってくる。酸素と十分に反応し、固まる油というのはこの二つの脂肪酸のみで(厳密にはオレイン酸も反応はする)、リノール酸は二重結合を二個持ち、リノレン酸は三個持つ。リノレン酸が多く含まれていると強靭だが、黄ばみやすい。

 標準的なリンシードオイルはリノレン酸の含有率が多く(60%程度)、リノール酸、オレイン酸がだいたい16%ほど含まれている。

 一方でポピーオイルにはリノレン酸はほぼ全く含まれず、リノール酸が圧倒的に多い。

 (ポピーオイルに近い性質を持つサフラワー(べにばな)油というのも使われている。画材としてはマイメリやホルベインから発売されている)

 

 

 ポピーとリンシードのどちらが良いのかは議論が分かれている。というか、思想で分かれている。世の中にはポピーオイルの弱さを許せない人が相当数存在していて、そういった意見は歴史的なデータによってかなり裏付けられているものでもある。

 その一方で、リンシードの黄色さがポピーに比べて顔料の色に影響を与えることも確かであり、それを嫌うメーカーも存在する。例えば日本のマツダスーパーというシリーズは油絵の具を全色ポピーで練っていて、発色を最優先している。

 絵の具がどんな油で練られているかはできれば知っていた方がよく、なぜなら絵の具の目指している方向にかなった使い方ができるからであるし、見当違いに使ってしまったらそのシリーズを使う意味がなくなってしまうからである(マツダスーパーをリンシードたっぷりの筆で描くと、ポピーで練った長所を消してしまう)。

 

 一方でポピーオイルは重合することで弱点を抑えることができるようである。スタンドポピーオイルなどが販売されているが、私は使ったことがないのでなんとも言えない。だがなんにせよ重合してるので、生のオイルより強靭なはずである。でも重合したら黄変しづらくなるからスタンドリンシードを避ける理由がないのでは? とも思ってしまうのだ。

 しかしわからない。もしかしたらポピーとリンシードのスタンド油を比べたら心が揺れるほど黄変に差が出たりするのかもしれない、とこの記事を書きながら思った。生のリンシード、サンシックンドリンシード、くるみ油を黄変テストしてみたことがあったが、予想以上にくるみ油だけが黄変に耐えて驚いたこともあった。リンシード二つは完全に黄変したが、くるみ油は青みすら感じるほどだったのである。またサンシックンドリンシードは生に比べると黄変しにくいとは言われているが、長期間ではあまり関係ないことも分かったので、何事もテストをしてみないことには断言はできないものだ。

 

 思うに、ポピーオイルに関しては研究・追試があまり進んでいないように思われる。スタンドポピーオイルやサンシックンドポピーオイルなどのポピー加工油はそこまで新しい画材ではないはずなのに、詳しく書かれた文献がほとんどない。これは描き手がポピーオイルにあまり関心がないことを示している。それはどうしても、油彩の材料を高度に扱うということは、油に関してはリンシードオイルをいかに使っていくか、ということになりがちだからなのだろう。また一部の人たちにはある種の蔑視というものがあり、特定の画材についてひどい言い方をする。(そのいくつかの品名は伏せるが)「あんなの素人の使うもんだ」という全く同じセリフを何人かから聞いたことがあるが、その言い方流行ってるのかな、と思ったものだ。とにかく、作家さんはまだしも技術者さんまでそういうことを言う世の中なので、この意識の射程の中にポピーオイルが入ってるような気がしてならない。

 性質がほぼ全く同じでより安価なサフラワーオイルの販売にメーカーがほとんど力を入れず、ポピーの種類をいたずらに増やしているのも、利益率が高いのが理由なのでは……? と思ってしまう。

 だからというわけではないけれど、画材一つ一つにはその存在の理由がきちんと求められたい。画材というものは何か理由があって、誰かに望まれて生まれてくるものである。それは時には必然であったりするし、また場合によっては大人の都合だったりもする。善悪はともかく理由がある。意味もなく使われているものはないか、あっても淘汰される。スタンドポピーが絵描きにとって意味のある理由を持った存在かどうかは検証でしかわからないことだ。そこはまだ掘り下げていく余地があると思っている。

 

 

 画用に用いるナイフはパレットナイフあるいはペンチングナイフと呼ばれている。細長いへら状のものに対して先がダイヤ型、細形なものを特にペンチングナイフというので「パレットナイフの中の一部のものがペンチングナイフ」という考えでいいかもしれない。「絵画材料辞典」でもまとめて「パレットナイフ」の項目で説明されている。実際には現代ではペンチングナイフの形状のものの方が多く使用されている。

 

 これらのナイフは通常油彩技法においてパレット上で絵の具を混ぜたり、キャンバス上の絵の具を直接操作したりするために用いる。現在流通しているような薄くて弾力があり、かつ曲がったり折れたりしないものは近代になるまではなかったようだ。今と同じほどの使い心地かは分からないが、形が似ているものが1840年頃に初めてC・ロバーソン社のカタログに掲載された。それ以前になると普通のただのナイフを使っていたか、薄い板で絵の具を混ぜていたらしい。条件を満たすために必要な冶金技術が発達するまではナイフで絵を描こうという発想がまずなかったと思われる。現在ではナイフは筆の代わりに描画する道具のように思われているが、本来的にはナイフは絵の具を混ぜるためのものであったし、そもそもまず昔の絵の具はゆるかったのでナイフでは塗りづらかった。

 

 売られているナイフの材質にはいくつかあるが、ステンレス鋼か鋼が一般的である。特にステンレスは過酷な使用に耐えられる優秀な素材の一つ。

 廉価な鋼製品は鍛造してないからそうなってるのか、値段相応の感がある。もともと鉄製品そのものは油彩にはあまり相性が良くない。乾性油やテレピンは過酸化物を産むので、鉄を常にサビの危険に晒す(ステンレスは化学的にはすでに完全に錆びている状態なので安定してる)。料理の世界だと切れ味を求めて鋼の包丁を選択することもあるが、ペンチングナイフにおいては鉄がステンレスに優っている点はあまりない。安いものをサブで一本……という買い方か、無くすかもしれない出先に持っていくという時にはいいかもしれない。しかし、安いナイフはとにかくすぐ曲がるし、設計が雑なので力がきちんとかからない。ナイフとイーゼルだけは最初からいいものを買った方がいい、と思う。

 他の素材にポリプロピレン、要はプラスチック製のものもある。非常に安いので、大量の用意や使い捨てのような用途にも適応がある。

 

 描画においてのナイフの使用例は、塗りつける、引っ掻く、削る、画面上での混色、など。これらは絵の具にある程度の硬さがあることが前提となっており、絵の具の現代的さ、ナイフの金属的な技術の高度さと合わせて、非常に近代的な技法と言える。こうした効果は場合によっては面白くもなるが、作家次第である。耐久力の点ではどうしても古典技法に劣り、場合によっては(特別な配慮なしに分厚く塗った場合)かなり悪くなる。

 キャンバスというのは麻を編んで作ってるので、それに日常的にナイフをなすりつけているのは、ヤスリに擦っているのと同じことになる。ので、ナイフはだんだんと研げてきて、刃がついてくる。そのうち新聞紙くらいなら簡単に切れるペーパーナイフみたいになって危ないので、定期的に紙やすりなどにこすりつけて刃を落とさないといけない。

 で……それも長いこと繰り返していると、だんだんとナイフが変形していく。

 

 

 左右非対称になってしまったナイフ

 

 

 描画以外ではパレット上で絵の具を混色するのにまず用いられる。これは筆を使っていちいち混色するよりも便利な場面がままあるからで、使い分けの問題なので、その時使いよい方を用いればいい。

 ナイフが必須なのは絵の具を練る時などで、量的にも質的にも、これは筆ではやってられない。

 油絵の具を練る場合、最終的には練り棒というものを使って練り込むのだが、その下準備として顔料と油をとりあえず絵の具状になるまでナイフで練り混ぜておく。これを筆でやるのは大変だと思う。私は筆でやった事はないし、筆でやったという人を聞いたこともないけれど、おそらく大変で、意味もあまりない。

 

 そういった意味で、ナイフは独占的な仕事(他の道具で代替できない作業)を持ちつつ、汎用的な仕事をこなすという珍しい画材である。

 

 アゾ系とは、アゾ基(-N=N-)(なんかー窒素=窒素ーなんか)を顔料の構造の中に持つものである。

 

 

 上の図がアゾ基で、これを顔料の分子の中に一つ持つものをモノアゾ、二つ持つものをジスアゾ、三つ持つものをトリアゾ、三つ以上をポリアゾと呼んだりする。

 これらは人工に作られた顔料で、最初は1858年、イギリスにおいてグリースによって発見、染料として発表された。アゾ顔料はその分子配列を変えることで顔料にも染料にもなり、その性質を自由に変えられる。こういう特徴があることと、発色が赤~黄の暖色に寄っているので、青~緑を発色させるフタロシアニンとしばしば対比させられることもあるとか。

 アゾ顔料自体は無毒だが、若干不安定なところもあり、アゾ基が水素と反応してぶっ壊れることによって発ガン性物質を出すことがある。昔、アゾ顔料を使ったマニキュアからホルムアルデヒドが検出されてしまって騒がれたことがあった。そういう経緯もあって、一部のアゾ顔料は安全性の問題から規制がかかっている。

 

 

 実際の顔料の形は例えばこんなふうである。-N=N-のアゾ基が一つ含まれているのが見て取れる。

 

 この系統の顔料、染料は赤~黄の発色から、用途に応じた品質、コストを選択しながら生産するので、使用される場面は広い。

 アゾ基一つのモノアゾ顔料は数自体は出回っているが、油絵の具にするとブリード(滲み)を起こすし、耐光性に乏しいので、あまり向いているとは言えない。安い水彩絵の具、印刷用インキ、その他着色料などに用いられる。

 アゾ基を増やして分子量をでかくしていくと顔料としてのスペックが上がっていくので、アゾ基二つのジスアゾイエローなどは印刷、画用両方に用いられたりする。

 顔料として最も信頼できるものは縮合アゾと呼ばれるもので、これはアゾ化合物同士をくっつけて繋げて無理やりでかい分子にすることで耐光性、耐久性を上げている。高コスト、高パフォーマンスといったところか。しかし、そこまで高性能の絵の具というわけでも別にない(耐久性は絵の具全体の中で見たら中くらいといった感じ)。欠点の目立つ絵の具を代替するのに向いている。例えばカーマインレーキ(カイガラムシからとる色)やローズマダー(茜の根からとる色)は色が褪せやすく、滲みやすいので、縮合アゾに置き換えているメーカーがある。

 

 アゾ系の染料、顔料は世の中において現在たいへんに活躍しており、消費量はとても多いと思われるのだが、美術の場においては積極的に語られることはほとんどないような気がする。その理由を考えるに、多分、皆あまりよい絵の具だと思ってはないのではないのかな。美しさ・耐久で言えばカドミウム系顔料やキナクリドンに引けをとるとか。確かに特別な長所を上げろとなると、特にないような絵の具かもしれない。でもカラーインデックスの暖色系の半分くらいはアゾ系だったりすることもあるのだから、たまには思い出してあげてほしい。

 

 ちなみに、名前が似ている化合物でジアゾ基というものを含むものがある。これはアゾ基に見た目もそっくりだが、アゾ顔料とは全く別系統と考えていい。ジアゾ化合物は不安定で爆発する。美術にこの物質が使われているところは私は見たことがない。

 

 ↑これを見た時の「感じ」である。

 

 クオリアとは、意識の経験上に沸き起こる主観的な体験としての「質感」「感覚」のことである。上に赤の色を例として出したが、クオリアは「赤色」の名前でも色味でも610nmの波長の光線でもなく、見たときに覚える「感じ」のことである。色だけでなく、痛みや喜びなど全ての主観的な質感を指す。

 クオリアは脳科学・哲学などで取り上げられるモチーフで、学者によっては「意識」と同一視している人もいる。厳密に定義されているわけでもないので、分けて考える場合は「主観的に知覚される質感」として捉えて差し支えないと思う。

 

 クオリアの説明の難しさは、口で説明することが不可能なことにある。これはつまり「私が今赤色を見てる時に感じる色の感じ」とか、手をつねった時の「痛い感じ」で、主観的には確かにあるような気はするけど、言葉で指示できないのである。このように、クオリアの特徴としてはその質に必然性がないことと、他者に観測ができないこととがある。

 たとえ話の仮定として、人物AとBをおく。Aがい色を見て「これは赤い」と言う。同時にBが同じ赤い色を見て、やはり「これは赤い」と言ったとしよう。いっけん二人は共通に赤を認識しているように見て取れる。だがAは赤をと知覚しており、「赤い」と言っている。Bは赤をと知覚しており「赤い」と言っている。二人は赤の見え方が違うのである。彼らはもともと赤について異なるクオリアを持って生きてきているので、彼らにとって「赤」とはその色であり、体験として立ち上がる「赤」がそれぞれ違う。つまりAB間は同じ「赤」という言語での共通了解はなされてはいても、実は意味内容が違う。クオリアとは体験の内容であるからして、その性質上共有ができないのだ。

 

 このことは私たちが見ている世界に共通項や正当性が保証されていないことを示しうる。例えば同じ絵を見て似たような感想を交しあったとして、二人が同じあるいは近い印象を絵から受けている確証というのはこの哲学の上では得られない。

 

 では、こうした不確かなクオリアがどうして存在するのだろうか? クオリアについて否定的な科学者は、クオリアは脳の物理的な活動の副産物に過ぎないという。

 脳は物質的に見れば原子・分子の集合体で、電気信号による交信によって活動している。脳が外部から影響を受けるとしたらそれは電気信号である。クオリアは主観的体験の質であって、非物質である。非物質が物質に物理的影響を与えることはない。よってクオリアは脳の活動に不干渉である。以上。

 これは我々の目からすると極端な意見にも見えるかもしれない。確かに感じているはずの痛みや感動や喜びが、脳の活動に全く影響がないというのか? だが、彼らはそうだという。

 曰く「クオリアは、脳の状態に付随して発生しているだけで、クオリアが脳の状態に作用を及ぼすことはない」

 これを随伴現象説と言って、脳がクオリアに影響を及ぼすことはあっても、クオリアが脳に影響を及ぼすことはないという見方だ。

 その中では、人間は自由意志を持って動いているように見えるようで、実は脳の物理的な運動によって決められたことをなぞっているだけの、純粋な科学的機械でしかない、という像が見えてくる。

 脳があくまで物理現象によっての意志決定権を持っているなら、人間の意志とはつまり物理現象である。

 

 が……本当にそうであるのなら、意識やクオリアはあってもなくてもいいものになってしまわないか?

 本当にクオリアはそんなに軽いものなのか?

 

 そこで考え出された概念が「哲学的ゾンビ」である。哲学的ゾンビは、外見や解剖学的には普通の人間と全く同じだが、クオリアがない。つまり、笑うし、泣くし、チューリップを見て「赤くて綺麗だね」と言うけれど、実は何も感じてない。

 (哲学的ゾンビは哲学のモデルのために作られた仮定的存在だが、実際に現実で他者のクオリアの存在は証明できないので、つまり自分以外の人間が哲学的ゾンビではないということを証明することもできないという怖い話もある)

 

 唯物論(脳の物理法則だけで全て説明する論)を否定するのに、このゾンビを使用したゾンビ論法というものがある。

 1 我々の世界には意識体験がある。(意識、クオリア、経験、感覚などが、とにかくある)

 2 物理的には我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識に関する肯定的な事実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。(意識、クオリアなどが存在しない世界。哲学的ゾンビだけがいる世界で、『ゾンビワールド』と言うが、ひどい名前だ)

 3 従って意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、我々の世界に関する更なる事実である。(ゾンビワールドに欠けているが、我々の世界には意識、クオリアが備わっている。それは、現在の物理法則には含まれていない)

 4 ゆえに唯物論は偽である。(以上の点から現在の物理法則、物理量で全てが説明できるという考えは間違っている)

 

 ゾンビ論法をもう少し簡単に言うと、「現在の物理法則では意識やクオリアの問題を扱えないけど、だからといって影響がないとは言わないでほしい。物理学では現実世界とゾンビワールドを区別することもできないじゃないか。物理学でなんでもできる気になるな」と言うこと。

 

 また、クオリアが脳に対してなんの影響も与えないのなら、そもそも我々はクオリアについて自覚することができず、語ることも不可能だったろう、ということになる。

 随伴現象説からは、こうした「現象報告のパラドックス」と呼ばれる問題が引き起こされてしまう。

 

 

 さて、では唯物論を攻撃したところで、本当にクオリアは確かめ合うことができるのだろうか。別の世界にこそクオリアが満ちていて、この世はゾンビワールドで自分だけがクオリアを持っているというバイオハザードの世界ではありえないという確証はない。他人に「あなたゾンビじゃないだろうね?」と言われた時、クオリアがあることを証明できない。

 しかしこれは概念上の問題で、実際の生活世界の中では人々は心を持ち、そこに営みを持つように思え、その前提の上我々は生きており、世界は機能している。この現実の上での実りというのは哲学モデルより強度のあるもので、我々はそれを信じ、糧にすることで前に進む力としてよいのである。たとえゾンビだとしてもね……。