正義とは一体なにか。それを一通り踏まえた上で、社会の在り方を以下本論に展開していくことにする。
正義とは、社会の成立や維持には必須のものである。
例えば、法律に正義がないのならば社会の秩序を保てないからである。
しかし、正義だけでは効果がない。
力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的だからである。
故に、正義と力を一緒に置かなくてはならないのだ。
ということは、正義が正しいか、力が正しくなくてはいけないのだが、正義は議論の種になる。反対に力はハッキリしているものである。力が正義に反対したため、正しいものを強くできなかった。正義を強力化することができなかったのだ。
では、正義の「議論の種」、力の「ハッキリ」とは一体どういうことだろうか。
これは、内的なものか、外的なものか、という分類が可能だろう。
内的なものに関しては、目には見えないものなのでその力量などが測ることが出来ずに、戦い、内乱が生じてしまう、いわば「議論の種」であって、
外的なものに関しては、ただ単に数を数えさえすればいい、目で確認することが可能なので、明確、「ハッキリ」しているのだ。(力>正義)ここでは、「腐敗した理性」との関連が読み取れる。(理性・内的で判断⇒内乱)
このように、力によって支配的な一党(社会)が決定される。しかし、力というものは決定力があるが持続力がない。
ここで、戦いが続くのを欲しない支配者は、民衆などが気に入る方法で受け継がれていくように制定する。そしてここから、
「想像力」
「習慣」といったことが、重要な役割を占めることになるのだ。
<力による社会決定⇒力では持続できない⇒想像力の網+習慣による維持>という社会の様子が読み取れる。また、真正の法、自然法を、腐敗した理性ですべてを腐敗された社会、とも言えるだろう。