「羽生結弦さんです」と。
ですが「ああいう男性がタイプなの?」と問われると「いいえ、違います」と答えます。
この先からは、まぁ会話がこんがらがりますね。
世間一般的には「好みのタイプ」=「恋愛対象として理想のスペックを持った人間の特徴」ですので、この会話は、もう根本的に躓いているのです。
もちろん私自身よく分かっています。
私の認識が世間一般的とは大いにズレており、質問した側は何も悪くなく、というか全力で悪いのは私の方なのです。
して、私は特に恋愛対象となる人物の存在を得ようとは思っていないし、結婚も考えていない。
ゆえに「「恋愛対象として理想のスペックを持った人間の特徴」を述べることが出来ないのです。
であれば「いません」と答えるのが良いのですが、ついつい言ってしまう。
「好みのタイプは?」と問われて「羽生結弦さん」と言ってしまうのです。
これだけだと私が雑談ができないダメ人間そのものです。
まぁそれはそうなのですけど今日は別に私のダメ人間っぷりを語りたいわけではないのです。
「好みのタイプ」という単語で羽生選手がすぐに浮かんでしまうのには理由がある。
この「好みのタイプ」という単語を認識すると私は「人としての理想の在り方」という思考が浮かんでしまう。
私にとって「人として理想の在り方」が羽生結弦さんなのです。
ですが、例えばこう「人生のパートナー」的な存在に羽生結弦さんらしさを求めているわけではないのです。
私です。私自身の「人としての理想の先」が羽生さんなのです。
決して、決して、決して羽生結弦さんのような人間になろうとしているわけではない。
というか、なれるわけがない。あそこまで素晴らしい人間にそんな簡単になれるわけがない。
けれど憧れます。これ以上なく憧れます。
両親以外で尊敬している人物と問われれば羽生選手と答えます。
決して届かない。それでも理想の先にはいつでも羽生さんがいる。
私は羽生選手のファンになったきっかけは↑の記事をご覧ください。
いつしか私はこのような考えになりました。
他人に抱く理想を語るよりも自分が自分に見る理想を夢見ようになった。
なってしまったと言うべきか。
私も「羽生結弦で人生変わった人」の一人です。
(最近、録画してるねほぱほ何回も見ている)
(平昌五輪の映像も何回も見ている)
2014年の24時間テレビで羽生選手に出会って無かったら私はきっと今頃ニートだったと思う。
いや、下手したらこの世に生きてなかったかもしれない。
超クズ人間だった私がそれなりに普通になれたのは本当に羽生選手の存在を知ったからである。
…普通?普通かな?ふ、ふつうかな…!?(途端に不安になる
私は能力は下寄りの並の人間なのに非常に高慢でプライドが無駄に高くて自分大好き。
その割には他人に引きずられ他人の価値観に引きずられ、どうでもいいことで落ち込む。
下寄りの並を少しでも良く見せたくてだらだら無駄に語りたがる。
が、が、が、それでも褒められると喜んじゃう!だって嬉しいもん!だから私は凡人なのだ…
いや、いい。凡人でいい。凡人だからこそ、私は「羽生結弦」という天才に憧れることが出来る。
憧れて、尊敬して、遙かに遠い理想ゆえに到達できない。
せめて、その尊敬と憧れと理想に抱くに足るくらいの人間ではありたいと思っています。
「私が尊敬する人は羽生結弦さんです!憧れています!理想です!」と堂々と胸張って言える自分でありたい。
今はね、今は、小声くらいなら言えます。5年前の自分に胸を張れる自分でいられているので。今は。
それくらいの努力なら私でも出来ると思うし、しなくちゃいけないって思っています。
…思っているけど落ち込む時は推しのこともスポーーーーンと頭から抜けて落ち込んでしまう。
私の精神年齢のひとつに「ちゅうがくにねんせい」があるので「私の絶望度で世界が滅びるならこの一瞬で三回は滅びてる」とか言っちゃう。
ああ、こんなんだから理想には程遠い…遠くても、何もないよりはずっと良い。
「羽生結弦選手のファン」でいるからこそ、喪わずにいられている理性があるのです。