中越地震から今日で20年。
あの日、私は新潟にいなかった。
地震の日、私は旅行中で
地元の友達や親戚から
新潟大丈夫なの?と入る連絡で
中越地震を知りました。
すぐに予定を変更し
慌てて帰ろうとしたのだけれど
東京までは飛行機で帰れたけど
上越新幹線の脱線。
とにかく家に帰ろうと
山形新幹線に乗り、米沢に行き
米坂線でなんとか自宅にたどり着いた。
米坂線があんなに混んだのは
後にも先にもあの日だけではないかと思う。
電車はギュウギュウで、
何とか新潟に帰ろうとする人ばかりだった。
私が覚えているのは
電車の中の人たちの優しさ。
みんなで代わり番こに席に座った。
私は東北訛りが懐かしく
特に癒やされて、優しさを感じたのかもしれません。
床に、新聞やシートを敷いて
座れる人はそこに座って
椅子代わりにできる荷物を使わせてあげてる人もいて
みんな、不安な中でも
何となくあったかい空気が流れていた。
家についた時、本当にホッとして
引越したばかりだけど
私の家はここなんだ、と思ったことを覚えている。
それから、
地震の時にいなかった自分が
ちょっと後ろめたくて
申し訳ない気持ちになっていた。
その次の年の春
中越の学校に赴任することになって
地震の影響の大きさを目の当たりにした。
子どもたちが地震ごっこをしたり
消防車や救急車を怖がる子がとても多かったり
避難所になっていた体育館に
入りたからなかったり…。
災害が子どもたちの心に落とす暗い影から
どんなに怖かったのかを感じた。
余震は私も体験した…
でも、その日の怖さを知らないことに
やはり、引け目を感じていた。
中越地震の年は
夏に水害もあり自宅周りが水浸しになり
そのシーズンの冬は大雪だった。
続く時は続くんだ!そう思ったけど
振り返れば災害は、ずっーと続いている。
度々、大きな地震が起こり
東日本大震災の際は、実家も被災し
祖父母は災害関連死であっと、いう間に…。
能登もそう。
地震に水害…今年は雪も多いと予報されている。
少しでも、未来に向けたことを。
道が修復されてもその道は、
地元を離れるための道。
私の地元も、ただただ限界集落が増えているだけ。
もしもの備えは備蓄、防災用品だけではない
一番の備えは、結局、人との繋がり。
そんなふうに思う。
地元の人との繋がりを大切にするのと同時に
遠く離れていても、
助け合える関係を作っておくこと。
昔は姉妹都市交流が盛んだった記憶があります。
子どもたちが、お互いの町で交流していた。
そんな試みを再び始めるのもよいのかも。
とにかく、最後は人との心の繋がり。
そんなふうに思います。
能登の早い復興を!
公式ラインのご案内