ツル茶ん物語 | 九州最古の喫茶店。ツル茶んのマスタ-のブログ

九州最古の喫茶店。ツル茶んのマスタ-のブログ

創業大正14年、九州、長崎の喫茶レストラン「ツル茶ん」の三代目マスタ-のブログです。姉妹店ヴィンランドも含め、長崎の魅力発信、マスタ-の個人的趣味など、掲載してゆきます。
長崎名物。「トルコライス」や「元祖、長崎風ミルクセ—キ」が大人気。

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 ツル茶んが誕生したのは、大正十四年(西暦1925年)です。初代、川村岳男は、小浜高等小学校を卒業して、博多にあった共進亭(後の日本食堂)に勤務していました。
二十歳になって、徴兵検査を受け、帰ってくると専務に、「君は、見どころがあるから、新しい仕事をやってみたらどうだ。ついては、東京で喫茶店という新しい商売が、流行っているらしい。これを研究してみたらどうだ。」と言われました。
 色々調査をして、現在の長崎市、油屋町の地で開業することになりました。許可をえるために、長崎警察署へ出向きますと、「喫茶店という項目がない。どんな商売だ。女は置くのか」という、お尋ねがあり、「東京の方へ照会するから、暫く待つように。」と。
 一か月程して、「許可をあたえる。」と、連絡があり、「しっかり、頑張るように」とのお言葉を頂きました。五月六日に開店しました。
 「ツル茶ん」とは、「鶴の港の長崎に、はじめて生まれた喫茶店」という意味です。
 開店すると、長崎初めての喫茶店ということで連日満員の大盛況。地元、文化人の増田図書館長、渡辺蔵輔さん、古賀十二郎さん、長崎高商の武藤重蔵先生、などは、毎日のように、おいでなり、さながらサロンの分囲気を呈しました。夜は丸山の芸妓さん、サラリーマンや、学生で賑わいました。
 
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 メニューは、コーヒー、ココア、紅茶の外、長崎風ミルクセーキを考案し、さらにアイス・クリームを年中無休で販売しました。冷凍機などの無い時代で、大量の氷と塩を使って製造し、また、それを、大きな樽の中に入れて、大量の塩と氷で保存しました。クリーム・ソーダとか、クリーム・コーヒーに人気があり、ほかに、みつ豆、など。洋菓子は、まだ長崎にめぼしい品物がなく、博多より、毎日とり寄せました。
 開店より、五年間は競合する店もなく、喫茶店としての、ツル茶んの名は、定着しました。
 
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ここに掲示したのは、昭和七年のクリスマスの写真です。昭和初期の喫茶店は、高等小学校を出た十四歳から十八歳くらい、いがぐり頭のボーイさんが、白いコートに金ボタンというスタイルで給仕をしました。女性の従業員はいなかったのです。一見ノスタルジックな、平和な写真ですが、前の年には、満州事変が始まっていました。戦争の影が感じられていました。ボーイさんにも次々に召集令状がきました。右側の三人のボーイさん(中村、伊藤、本田さん)いずれも、戦死です。左の荒木さんも、ビルマで目を撃たれて、失明し、戦後すぐになくなられました。戦争がいかに多くの若者の命を奪ったか、この一枚の写真でもわかります。
 川村岳男(初代)も、支那事変が始まると、すぐに出征し、小倉の野戦病院で、衛生兵として勤務しました。傷病兵の歌手、灰田勝彦の担当となり、のち、南座の公演の時などは「川村伍長、いるかい?」といってたずねてきました。
 
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 大東亜戦争の前年には、二回目の召集を受けており、ジャワの上陸作戦に従軍しました
今村中将の乗った龍城丸が、沈没しましたが、すぐ隣の輸送船にのっていました。
 三回目の出征は、沖縄です。もう四十歳になっていましたが、沖縄から宮古島へ移り、玉砕は免れましたが、実戦部隊の捕虜として一年半の重労働に処せられ、飛行場の建設に従事しました。
 
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 男手が少なくなり、女性従業員を採用しなければなりません。その頃、店頭に貼ってあった貼り紙には、「女ボーイさん、募集」

 コーヒーや砂糖もなくなり、色んな統制も敷かれて、店は外食券食堂のような感じになりました。どういう訳か、大量に配給される、スケトウダラを使ったランチが十日ばかり,続いた事もあります。それでも、腹を空かせたお客さまで、店は満員でした・
 昭和十九年頃は、家庭の食糧も不足し、営業も休業の已む無きに至りました。
やがて、終戦となり、米軍の進駐があり、世の中は次第に落ち着いてきましたが、その間、インフレは進み、預金封鎖があり、女、子供だけの所帯の遣り繰りは大変でした。
一階の店舗を、その頃、流行ったダンス・レッスン場に貸したりしました。
昭和二十一年、十一月に、突然、予告なしに、父が帰還しました。
重労働のために、衰弱していた父は、一週間ほど、寝こみました。
 家族四人が食べていくためには、喫茶店の再開しかありません。然し、それには、多くの難問がありました。
 原爆で歪んだ家を直しましたが、預金は封鎖されて、一か月に五百円しか引き出せず、資金はゼロです。それでも、父はなんとか努力して、一階のダンス・レッスン場の立ち退きに成功し、喫茶店らしい内装を殆ど手作りで完成し、営業再開に漕ぎつけました。、
 
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 一般家庭にも乏しい食材です。商売用は、闇業者に頼るしかありません。サッカリンや、小豆、貴重な砂糖などを持ち込む人がいました。軍の隠匿物資だということでした。私はいまでも、スーパーなどで、砂糖の、特売などがあると目の色が変わります。
 夜中に急にたたき起こされ、山奥に蜂蜜を買いに行きました。昼間は、警察の目がこわかったのです。
 そのうちに、進駐軍の兵隊が食材の売人になりました。大柄の黒人がにこにこして、上着のポケットからМJBのコーヒーやチョコレートを出します。私は片言の英語で「ハウ・、マッチ」と交渉しました。コーヒーの缶を開けると、コーヒーの香りが、部屋中に広がって、お客様が皆、歓声をあげました。
思案橋付近は、闇物資を売る人が集まっていました。大半の人は、立ったままで、物は懐に入れていました。取締りが来ると、何食わぬ顔をして、立ち去るのです。
サンドイッチの注文が入ると、私は,顔なじみの、おばさんの所へ走り、手焼きの丸いパンを持ち帰ると、父は、それを薄くスライスしてサンドイッチを作りました。
 
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世の中が次第に落ち着きを取戻し、冷房、LPレコード、テレビなどが、喫茶店の新しい戦力になりました。やがて、ジャズ喫茶がうまれ、テレホン喫茶、漫画喫茶、
都会では美人喫茶、個室喫茶、はては、ゲーム喫茶など多様化し、本来の喫茶店は、純喫茶と名乗る次第。 
少し、難しい事を言いますが、食品衛生法施行令第五条では、喫茶店のことを、「サロンその他設備を設けて酒類以外の飲み物または茶菓を客に飲食させる営業を云う」とあります。現在、喫茶店と名乗る店は、殆どが、「一般食堂」という分類で許可を取っています。だから、ビールとか、ウイスキー、ワインなどを売ることができるのです。
近年、カフェと名乗る店が増えました。CAFEは、、戦前は「カフエ」と訳され、思案橋を渡ると、カフエ美人座、カフエ黒猫、カフエ・タイガーなどがありました。白いエプロンをした女性がサービスをする風俗営業で、後のキャバレーとスナックの中間ぐらいの感じです。
 
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歌謡曲「道頓堀行進曲」の中で「何で、カフエが、忘らりょか」と,歌われています。In a little café ,はヨーロッパの曲ですが、ここでは、「小さな喫茶店」と訳されています。
戦後、風俗営業の「カフエ」は無くなり、最近になって、やっと「カフェ」ができました。本来の意味を取り戻したといえます。
ツル茶んは、今年で創業八十六年になりますが、日本で最初の喫茶店は、明治二十一年、東京・上野に誕生した「可否茶館」です。もう、百二十年前のことです。創業者は、鄭永慶という唐通詞の家に生まれたエリートでしたが、数々の悲運に逢い、喫茶店も四年で終わりました。時期尚早ということもあったのでしょうね。
長崎には、老舗会というのがあって、創業百年が入会資格だそうです。私の代では無理ですね  (二代目 川村忠男 記)
 
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